それは落差があるからなのさ
きょう、窓から入ってくる風がとても気持ち良いと感じた。
秋の心地よさが来たな、と。
特に必要とはなかったけど近所のスーパーに行くことにした。遠回りをして。
暑くもなく寒くもなく、少し涼しいかなくらいの温度感。とても心地良い。
私は季節の中で秋が一番好きだ。旬の美味しい食材も豊富だし。春もいいのだがスギ花粉があるし、梅雨の湿気もよろしくない。
一年通して秋であれば良いよな、と歩きながら思った。
いや、本当にそうか?
秋はいいなぁ、この季節が好きだ! と感じられるのは、夏とか冬とか春があるからこそではないだろうか。
もし仮に、一年中秋の気候の土地で生まれ育ったとしよう。その環境が当たり前すぎて、この秋が好き!と思ったり感じたりする機会はないだろう。(そもそもそんな地域がもしあるのなら「秋」などの季節を表す言葉自体がないだろう。)
夏とか冬との落差があるからこそ、この秋が好き、この季節が特別心地よいなぁ、などという感情や考え方が生まれているのだろうということに気づいた。
好きだなぁ、気持ち良いなぁということを感じられるのは、差異があるもの、落差があるものに対してだけだ。均一のものには、好きも嫌いを感じないのだ。
正確には、差異を感じられないものには好き嫌いは感じられなくて、差異を認識できて初めて好き嫌いが生じるということだ。
手のひらの皮膚を見て、こっちの細胞より隣の細胞の方が好きだなぁとはならない。差異を認識できないから。
では、とある良く似た盆栽Aと盆栽Bならどうだろうか。
私は盆栽AとBについて好き嫌いを感じないことだろう。違いを認識できないから。
盆栽を生きがいにして数十年の方にとってはどうか?
盆栽AとBは全く違うものと認識されて、かなりの好き嫌いの差がそこに生じていることだろう。
つまり、物事に対する好き嫌いは、その対象物と比較されるものがあるからこそ、そしてそれらの差異を認識できているからこそ生じているものと言えよう。さらに比較されたものとの落差が大きい(と認識している)ほど好きとか嫌いの度合いも大きくなる。
逆に言うと、好きとか嫌いな気持ちが強いほど、対象物とその比較対象との落差を強く認識している/感じているということにもなる。
と、いうことは、、
もの凄い嫌だと感じる出来事・もの・人にエンカウントしてしまったとして、それを嫌だと感じる度合いが強いほど、比較対象に対する落差が大きいということであり、比較対象を好きだと感じられる度合いが引き上がっているということにならないだろうか。
嫌ぁなことってのは、自分が好きなものをより好きと強く再認識したり気づいたりする材料になるんじゃなかろうか。
この考え方をつかえば、
違い上等、落差上等、どんな多様性もどんとこい!なんでもきやがれ!
とかいうスタンスになれるのではないだろうか。
ならないか。
まぁ、でも
嫌いであればあるほど、そのすぐ裏側あたりに強烈な好きがありそうじゃないか。
ちょっと日々のものの見方感じ方がいつもより面白くなりそうジャマイカ。
秋って散歩して物思いにふけるのにちょうどいいよね。
ジャマタネ
いべ