それでどうなの?Ⓑ

損なの? 得なの? ⓑ

先に述べたように東大出の超有名な三人連名の叢書「日本の歪み」ですが、(お二方の予備知識が自分にそなわってなければ)反射的におののいて逃げていたかも知れない。左脳系学者の理屈っぽい文章にそれほど苦手感を持っておるのは乞食王子だけかも知れないが、殊に学識が高い左脳系の方がたの文章には専門用語が氾濫している気がしてしまう。それでも「バカの壁」は読みやすく書かれていたし、茂木氏のトィッター文には難解な言葉が並んだが氏のヤル気というか頑固というか、そんな性格が愉快に思われて惹きつけられたのを憶えている。そうすると出版には作者名がやっぱり肝要だな…となって気を取りなおした次第。

パラパラパラとページを繰ると対話ふうな体裁をとっているのに気づく。対話するのに欠かせない条件…(乞食王子で云えば)出来るだけ緩い空気が楽|《ラク》だから好ましい。だから専門語が多用されるところでは言葉の意味・説明を求めてしまう。経験を申せば、説明するのをイヤがる知識人を多く見てきたように思えるのは尋ねられるほうにも尋ねるほうにも嬉しくなかったってことだろう。そうでなくて気軽に解説してくださる人なら初めから疑問が涌かない工夫をしているだろう。つまり、それでも分かってもらえなければ「両者ドチラかの責任」と理解して語ってもらえる。

そんなことを思いながら「はじめに」に取りかかる自分。養老孟司氏らしいというか仲間への気づかいにあふれた文章。数行に目をとおして最後尾のほうへ跳ぶと「おわりに」とあってこれは茂木健一郎氏だ。「三人目はどうなってる?」と探すが見つからない。本文にも見つからない。「ん?」と口端に漏らしても仕方ない…出番があれば現われるだろうし。彼がいちばん若いから役どころがちがうのか…こんなところに文系かもと想像したりしている。裏表紙まで跳ぶと講談社現代新書の基本理念が書かれている。今年で60年になるその文章の輝きに感心しつつ目をとおす。(意訳すると)「乞食王子を啓蒙するにふさわしい三人の力作」と読める。それでペンをとってnote(ノート)することになったのでした。

それにしても鼎談ってなんだよ、となるところだが、養老孟司氏の文章は若いお二人に大いに神経をすり減らしてらっしゃるようだが、それ以上に読者への気づかいが以前よりも強烈に感じられるのは失礼な言いまわしになるか知れないが強いて申せば「左脳(系)の進化」が思われる。誰にも分りやすく表現したければ鼎談と書かなくても「対談ふう」で十分な筈だが「」を登場させたところは右脳の自由な働きが窺える。それで鼎談をどこでなさったか?自分の見落としなら後で出てくるだろうが並みの常識なら本文中になりそうだが…とにかく事務室でやっても茶室でやっても鼎談は鼎談。乞食王子的にはこれを「右脳集団に任せておけない日本」と読める。あるいは「右脳と左脳が捉懇ぞっこんのステージかなえの座にて仲良い哲学を教えてやろう」なら、これは痛快だな。そんなことが想われるはじめにの文でした。

いやいや、左脳系が遊びまで覚えたら並みの右脳系はうだつが上るまい。自分は「はじめに」と「おわりに」を読んだに過ぎず、肝心の本文はこれからですが、しばらくは脳味噌を休ませてからにしたいと存じます。拝。今回はココまでにいたしますね。≪記.乞食王子≫

(追記しておきます)
三方一両損は大岡裁きが話題で「二人と裁定者一人」の三人が一両ずつ損することでメデタクお開きになる筋書きですが、かなえは三方に責任が重く圧しかかります。御三方が仲よく一両ずつの損とはまいりませず、どれか一つ欠けても世界がひっくり返ります。左脳の計算高さに🍷乾杯、そして右脳の判断の好さに🍷乾杯ですね。これで仲よく出来たらどうでしょうか💐

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