花束みたいな恋をした | ではどんな恋であれば続いたのか
レビュー第2弾。もう見てから1週間以上たってるのに、まだ少し余韻の中にいるような、やっぱりすごい映画だった。少し時間を置いてこそでてくる言いたいことも溜まってきたので、続きを書きます。
第1弾はこちら↓
麦にとって、恋とは
「僕の人生の目標は、絹ちゃんとの現状維持です!」
これが彼にとっての、(少なくとも当初の)恋に対しての価値観だ。それなりに好きなもの(サブカル)と、それを好きな彼女に囲まれた、少し不自由だけど満たされた日々。それを維持したいと考えた。
そのためにとった行動は、「働くこと」。結構苦戦したみたいだけど、なんとか就職を決める。どんな仕事をしたい、自己実現したいといった思想は全くないが、絹ちゃんに報告するシーンでは、「17時に終わること」「成長している会社だ」ということをあげた。これを基準に仕事選びをしていたようにはあまり思えないけれど、これを伝えたときの彼は、「きっと絹を安心させられるだろう」「目的(絹ちゃんとの現状維持)に寄与できるだろう」と喜ばしい感情だったのだと思う。
この目論見はご存知の通り早々に打ち砕かれるのだが、大事なことは麦がそれをあまりネガティブなこととは捉えておらず、むしろ仕事に没頭していくということだ。ただ忙しいというだけでなく、サブカルへの興味を失い、同じくらいのスピードで絹への興味も薄れていく(ように見える)。
それが社会であり、責任であり、普通だ、という認識を持ち、その象徴が「人生の勝算」。彼は自分のことを「変化した」と認識しているのだろうか。「成長した」と思うのか「埋もれた」とか「成り下がった」と思うのか。
結果的に彼が現状維持したいと、当初思っていたであろう「サブカル」「表現」「絹との時間」は全く維持されておらず、残ったのは調布から徒歩30分の部屋と海でデートしてたあの頃の思い出だけ。そして麦はそれを「失敗」と捉えておらず「空気みたいに〜」とポジティブに捉えている。
絹にとって、恋とは
「はじまりは、終わりのはじまり」
これが彼女にとっての、恋に対しての価値観だ。ずっと読んでいた恋愛生存率というブログ。そこで書かれていたこの言葉に共感し、彼女はきっとこれまでの恋をそれなりに楽しんできた。(そしてひとつずつ終えてきた。)
出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティーのようにいつしか終わる。だから恋する者たちは好きななものを持ち寄ってテーブルを挟み、お喋りをし、その切なさを楽しむしかないのだ。
そう語った筆者は、「数パーセントに満たない生存率の恋愛をわたしは生き残る」と宣言。きっと絹も応援していただろうが、あっけなく命を落とす。恋愛どころか人生でさえもおわることを絹は受け止めることになる。
絹にとって、恋はいつかおわるものであり、そしてそれをパーティのように楽しむ。趣味が同じ麦となら、そのパーティもきっと楽しいだろうと思っていた。
最初は楽しかったパーティは、恋愛生存率の教え通り、徐々に終わりに向かっていく。好みがあうはずだった麦の興味がまったく別のものに移り始めたからだ。パーティだとしたら料理も食べず会話もせず、隅っこでパズドラをしてるのだ。これはもう無理に長引かせず、さっさと家に帰った方が有意義そうにみえる。
趣味は一緒だけど、最初から価値観はまるっきり違った
麦にとって、恋は現状であり、維持するもの
絹にとって、恋はパーティであり、終わるもの
趣味がどれだけ一緒でも、2人の恋への考え方は最初から違っていたように見える。重要なのは、「異なること」でなく、「一緒だと思っていること」である。
今村夏子のピクニックに何かを感じるからといって、すべての考え方が同じなはずはない。そもそも人間なんてみんな全然違うものなのに、同じ(もしくは似ている)という幻想からスタートしている。だから自分と異なることに耐えられない。
こう思うと、「この人はわたしと同じだ(似ている)」という認識からいい結果は生まれなさそうだ。(この人はわたしのことを分かってくれる的なことも近しいものを感じる。)
そして、人は変化するものだ
毎日変化するのだ。これはもうきっと抗えないんだと思う。僕は小学生の頃ポケモンカードを何百枚も集めていたけれど、あるときから全然欲しく無くなった。同じように人生をかけて人は変化し続ける。「趣味」のような極めて外側に位置するようなものは、なおさらである。
なので、もし1人の人と長期間暮らすことを目指すのであれば、変化を受け入れることは必須となる。そもそも絹には長期間といった前提はないのかもしれないけれど、もしも少しでもそれを目指していたなら、絹にかけてしまっていたのはこの部分だ。
麦はといえば、この作品を通してしっかり変化をするわけだけれど、「現状維持です!」と言い放ちながら変わってしまう部分に、かわいげというか、人間ってそうだよな感を持ってしまう。就職したあとの麦は、それでもまだ「現状維持」を目指していたのか、やっぱり維持なんて目指しても無意味だ的な感覚に変化していたのかは、ぜひ本人に聞いてみたい。人生の勝算の内容にもし共感していたならきっと後者だと思うけれど。
愛とは、
異なる(そして変化し続ける)存在を、受け止め続ける行為
である。これがこの映画を反面教師にした現時点の僕の解で、すごく納得感がある。それが難しいから大変なんだけれども。
だから花束みたいなんだけれど、
花束は多くの場合、変化することを楽しむ類のものではない。貰った時が最も美しく、嬉しい。もちろん大切にはするけれど、いずれ枯れて、感謝とともに捨てることになる。
この映画に関するいろんなレビューやツイートを拝見していると、「私は花束じゃなくてドライフラワーみたいな恋をしたい」「ドライフラワーならずっと楽しめる!」的な表現を多くみた。
もちろんそれぞれ感じたこと、価値観だと思うので、否定する気なんてさらさら無いのだけど、僕には違和感しかない。花束の対比としてドライフラワーをもってくるのはすごく良くわかる。ただあえてその例えにのっかるなら、ドライフラワーは麦が当初目指した「現状維持」の象徴であって、それはそれで失敗したのだ。
では何がいいかというと、無理やり植物に例えるのであれば、それは観葉植物であり、盆栽であり、もしくは花が実をつけ種を落とし、そしてまた花を生む過程である。
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