セガハードの父・佐藤秀樹 特別インタビュー『セガハードヒストリア』コンプリート版
1960年代のジュークボックス
1960年代後半からの
エレメカやピンボールなどを
事業の主軸にしていたセガ。
1972年にアメリカで
伝説的なゲームとなった
「ポン(PONG)」がアタリ社から
発売され、時代はコンピュータ
ゲームの入口に入りつつあった。
アメリカでのビデオゲームの
ヒットの様子を見た
当時のセガの社長デビッド・ローゼンは
そうしたテレビゲームの可能性に
着目し、ゲーム事業を立ち上げていく。
最初はアーケードゲームで
ヒット作を積み重ねていった後
1983年にセガは最初の家庭用ゲーム機
であるSG-1000とパソコン機能を付けた
SC-3000を発売する。
その時は、わずか3人のメンバーだけで
立ち上げられたというセガの家庭用ゲーム機。
その後のすべてのセガのゲーム機を生んだのが
佐藤秀樹氏であった。
セガの家庭用ゲーム機
ドリームキャストの撤退後、
セガの社長も務め、セガ家庭用ゲーム機の
誕生からドリームキャストの終焉までを見届けた
セガの家庭用ゲーム機の父とも言える
佐藤秀樹氏に、当時の秘話を語ってもらった。
2021年7月に発売した
『セガハードヒストリア』には
セガサターン開発当時のソニーとの
やりとりが明かされ、話題をまきましたが
書籍にはインタビューの1/3程度
しか掲載できなかった内容を
Webマガジン『Beep21』では
「完全(コンプリート)版」として掲載する。
『セガハードヒストリア』を
買えた人も
買えなかった人も
ぜひこの連載で
セガの記憶と記録を
コンプリートしていってほしい。
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50年前にラッキーがいくつも重なって面接したその日にセガに採用された
──佐藤さんがセガに入社されたのは、今からもう50年前の1971年ということでしたが、当時のセガはどんな会社だったか、というお話からお伺いしたいと思います。ちなみに佐藤さんは学生時代に、セガという会社については知っていたのでしょうか?
佐藤 いや、まったく知らなかったですよ(笑)、セガという会社は。私は大学は東京の京急線にある鮫洲に、当時あった東京都立工業短期大学(短大)へ行っていたのですが、その2年生の時に、 青年海外協力隊というのに、農業関係で行ったという人が近所に住んでいたんですね。で、たまたまその人と話をすることがあって、アメリカに行って車の免許とかも非常に簡単に取れたとか、とてもいい経験になったとか聞いて、ずいぶん夢のある話だな、と思ってしまったんです。それで、私もぜひそれ(青年海外協力隊)に行きたいと思って。その時の募集が埼玉県でやっていたので、住所をわざわざ埼玉県に移して応募をしてまでして。それで実際に試験を受けてみたんですけど、まあ、若気の至りっていうか(笑)。面接の時にいろいろと自分の意見を言ってしまったんですね。たとえぱ「向こうの人と意見が合わなくて、意見をされたらどうしますか?」とか聞かれたんですけど、普通は相手の意見に従って…みたいなことを言えば(試験的には)良かったんでしょうが、つい「そこは自律性を発揮しないとダメだと思います」みたいなことを言ってしまって。たぶん、あの時の筆記試験は難なく通っていたとは思うんですが、面接でね、いらんことを言っちゃったわけです(苦笑)。それでも当の本人は、もう受かったつもりでいたんですが、その後、待てど暮らせど「合格」の連絡が全然来ない。それで、こっちから電話をして聞いてみたらね「落ちた」って言われたんですよ。「どうして?」と聞いたら、あの時の面接の答え方にちょっと問題があった…みたいなことを言われて。それでも諦められなくて、やっぱり「青年海外協力隊」に行きたいっていう思いが強くて。今度は東京で応募があるっていうのを聞きつけて、また住所を東京に戻して、都庁に行ったら、担当者に話をいろいろと聞かれたんです。「今何やってるんですか?」「東京都立工業短期大学じゃ、農業とはまったく関係ないですよね?」とか言われたので、「いや工業だけじゃなくて、農業もやってるんですよ」とかごまかして言って(笑)。ちょうど私の友人に、梨畑をやってた人がいたのでそこで手伝いをやっているんです、なんて話をしたら、今度は「その梨畑というのはどのくらいの面積があるんですか?」とか聞いてくるんですよ。私はそんなところへは実は行ったこともなかったから、適当に「あそこに見えるビルの3倍くらいの広さですね」なんて答えたら、これはダメだ…って門前払いをされてしまって(笑)。もう行き場がなくなってしまったんです。
──短大で2年生というと、もう就職活動も終りに近い頃だった?
佐藤 そう。私はそもそも青年海外協力隊でアメリカに行くつもりだったから、周りで就職とかの話題が出ても、こっちは関係ないね、みたいな顔をしていたので。だけど、行くつもりでいた青年海外協力隊がダメってことになって、たまたま同級生らと飲む機会があって。話を聞いたら「俺はカシオ行く」「俺は富士通だ」とかね、当たり前だけど、みんな行き先が決まってるわけですよ。なんだよ、みんなちゃんと働くんか? みたいなことで、私もちょっと焦ってしまって。それですぐに学校の先生に相談しに行って。「今からどこかに勤めたい」「何かいいところはないか」ってね。そしたら先生も怒っちゃって。「お前、就職なんか関係ない」みたいなことを言っておきながら、何を今さらそんなこと言ってるんだって。実際、もう3月に入ってましたからね。たぶん学校に相談に行ったのは3月20日くらいだったんじゃないかな。
──3月20日…もう卒業式間際じゃないですか?
佐藤 それでいろいろ話してたら先生が「しょうがないな…」ってことで、その先生の顔で入れそうなところのひとつにフジソクって会社があって、スイッチ、コンセントで有名な会社だ、と。「ここだったら、なんとかツテで潜り込ませるということができるかもしれないが、どうだ」って言われてね。生意気にも「先生それじゃ、つまんない」なんて言ったんだもんだから、「じゃあ自分で探せ」と怒られて(笑)。「就職の資料が揃ってる部屋があるから、そこへ行って自分で探せ」と。それで、しょうがないからそこに行ったんですが、そんな部屋に入ったのも、それが初めてで。でも、見ていくと、いろいろ面白そうな会社があって、最初はトミーを見つけたんです。おもちゃをやっている会社だから面白そうだし、私自身もプラモデルとかが好きだったから、面白そうだなと思って電話したの。そしたら「もう締め切ってます」って言われて。まあ、今考えたら当たり前なんだけど。すでに3月25日とか26日くらいですよ。で、まだ1週間くらいあるから大丈夫かと思ったら、全然そんなことはなくて。それでも探していたら、セガという会社が出てきて。
──そこでセガが。
佐藤 なんとセガは大鳥居だ。学校(鮫洲)からも近いじゃないか。(京急線で)すぐに行けるぞ、と。でも、またヘタに電話とかをすると、「もう締め切ってる」とかなんとか言われる可能性があるなと思って、ここは今いるところから近いから直接行っちゃえって、セガにそのまま行ったんですよ。
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