キリストの復活とハチミツ
今日は、ここ日本ではほとんど注目される事のないイースター(復活祭)の日です。イースターは春分後の最初の満月の次の日曜日に行われるのですが、何故かクリスマスほどメジャーではありません。おそらくイースターというイベントは企業にとってビジネス的な旨味がないか、或いは十字架にかけられて死んだはずのイエスキリストが三日後に復活したという事が寓話ではないと信じる人が、いまの日本に於いてはほとんどいないという事だと思います。
昨日は、特に予定していた訳ではないのですが、ふと思いたって教会に足を運び、イースター前夜祭(復活の聖なる徹夜祭)のミサに参加して来ました。ミサは全員マスク着用で、聖歌を歌う事は禁止されていましたが、それでも20人ほどの人がミサに来ていました。
キリスト教という宗教の本質を理解するのにどうしてもハードルとなってしまうもの。それは聖母マリアの処女懐妊とイエスキリストの復活です。これら2つの奇跡を頭の中で解釈しようとすればするほど、「神を信じる」という心の有り様から遠ざかってゆく気がするからです。
ところで、イエスキリストが復活した時に最初に食べたものは焼き魚と巣蜜(comb honey)であると、新約聖書の中の「ルカの福音書」に書いてあります(日本語訳では何故か巣蜜と言う単語が抜け落ちている)。イエスキリストが復活した、その場には養蜂家がいたと言う事でしょうか。そこでもまた「なぜそこに養蜂家がいて、何のためにイエスに巣蜜を差し出したのか」と思考が始まってしまいます。
昨日のミサでは、木更津教会加藤神父の「人は、目に見えないからこそ信じる事が出来る」と言う一言が刺さりました。もし、復活したキリストの姿を見たとしたら、また、一度死んだはずの人間が生き返ってハチミツを食べている姿を見たとしたら、人は目を疑い、全てを疑い、「信じる」と言う心の有り様にはとても到達できません。
信じるとは、まさに心の有り様であり、目に見えないからこそ、その境地に到達する事ができる。そしてもし、本当に信じる事が出来たらなら、それは必ず現実のものとなり、目の前に現れる。この世界が意識の反映であるとすれば、そういう事になります。
地球上の全ての人が殺し合う事なく幸せな日々を過ごしているという奇跡を信じて。今日も無事に過ごせますように。
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