令和時代のハイカルチャー=動画配信
結構ヘヴィめな社会問題系です。
誰もがYouTubeを視聴している令和時代。スマホで簡単に動画を作って投稿ができるので、やろうと思えば本当に誰でもYouTuberになれます。それはとてもいいことだと思います。
ネット環境が生活インフラとして根付いている?と問えば多くの人が「その通り」と答えるでしょう。では次の質問です。
「あなたはYouTubeや動画サイトをなにで視聴していますか?」
この問いについて多くの人が「スマホで視聴している」と回答していることは、配信側は気がつきにくいものです。動画配信を続けている人はPCやMacで動画制作やライブ配信をしているので、そうでない人のことを想像しにくいのです。
もちろんデータとしてスマホ視聴が多い事実には気がつくと思います。
話題にしたいのは、動画のアナリスティクスとかインプレッションを増やす手合いの話ではありません。動画配信は現代のハイカルチャーにあたるのではないか、という仮説です。
ハイカルチャーとは
ハイカルチャーをざっくり説明すると、クラシック音楽やバレエなどの”お高い”感じのする文化セクターのことです。絵画や美術を鑑賞したり制作したりするのもそれにあたるかもしれません。書道なんかも一種のハイカルチャーです。
要するに社会的に評価される文化の総称です。
動画配信は、これらハイカルチャーの仲間入りをしているのではないでしょうか。
なぜ動画配信がハイカルチャーなのか
自分で動画配信をしていて分かったことは、配信する”だけ”なら誰でもできるけど、インプレッションを稼いだり広く情報を届けるにはそれなりに努力が必要だし、それなりに機材投資が必要だということです。
僕はApple iMac2017(メモリ40GB)で作業していますが、たぶんメモリ8GBではしんどいし、そもそも「メモリって?」みたいな層の人にとっては、パソコン選びから勉強しないと始めることもままなりません。
動画配信には基礎教養が必要なのです。
また、動画編集をするとなると結構な時間を要します。慣れてくると効率化はできるのですが、始めたての頃は3分の動画を作るのに数時間かかるなんてのは当たり前です。動画編集には練習が必要であるし、技術の習得には時間がかかるのです。(これはライブ配信も同じです)
そもそも自分の生活の中で情報発信をしようというモチベーションを見出すこと自体がとても社会的な発想です。自己承認欲であれビジネスであれ、公の場に自分を晒してアピールするには、社会へのコミットメントが必要です。
(顔出しだとか字幕動画でも同じで、投稿すると分かるのですが、他の動画と比べてしまいますし、比べることが苦痛に感じたりするものです。ここで挫折する人も多かろうと思います。
初期投資、勉強や訓練が大量に必要である点において、動画配信とはハイカルチャーのジャンルにあたるのではないかという考察です。ハイカルチャーとはつまり、クラシック音楽やバレエ、絵画や書道など社会的に承認された文化や趣味です。
ハイカルチャーの根本的な定義
クラシックバレエやピアノのレッスンがちゃんとレッスンに通って、そのレッスン料を先行投資してスタート地点に立てるものだとするならば、動画配信はべつにレッスンに行かなくてもいいですが先行投資は必要です。勉強も訓練も必要です。
クラシックバレエやピアノが社会的に”褒められ”が発生するのに対し、動画はインプレッションでそれを可視化できます。
これは仮説ですが、
ハイカルチャー【Hight-Culture】
社会的に承認された、個人の技能、能力に依存する文化や趣味。
こんな感じに定義が変化して、より大きな器になっているのかもしれません。
同時に、これに属さないものはローカルチャー(社会に承認されず技術を要さないもの)が分離され、格差社会は文化格差と、差別に地続きになっている点を見逃さず、許さない姿勢で今後も観測していきたいと思います。