九份の魔力
台湾の首都、台北から、車で約一時間。観光客を乗せたバスと何度もすれ違いながら、ヘアピンの ようなカーブが続く山道をぐんぐんとのぼる。到着したと知らされ、車から窓の外眺める。ふと目に 入って来たのは、大勢の人でごった返す、小さな路地の入り口だった。 ここは、かつて金鉱の採掘場として栄華を極めた町、九份(きゅうふん)である。現在は採掘が行 われていた鉱山は封鎖されているが、様々な映像作品のロケ地として取り上げられたことから、また 再び観光地として栄えている。ジブリ作品『千と千尋の神隠し』のモデルになったのも、九份の町中であるという噂だ。
小さな路地の入り口から人の流れにのって歩を進めると、左右に店がびっしりと並び、それが奥の方まで続いていた。どこからともなく、食べ物の臭いがしてくる。歩くほど、臭いは濃くなり、そして消えていく。肉を焼く臭い、スープの臭い、香辛料の臭い、薬のような臭い。威勢のいいおばさ んが、大きな鍋に入った赤い液体を大きなお玉でぐるぐるとかき回しているのが目に入る。鼻をつく 強烈な臭いは、台湾の豆腐料理としてよく知られる臭豆腐から放たれているようだった。とにかく、 目も忙しいが鼻が忙しい。様々な臭いが混ざり合い、路地にたちこめていた。少し息苦しくなった私 は、新鮮な空気を求めて、足早に人ごみを抜けた。
まっすぐ続く路地を行くと、店の様子も変わってくる。筆の専門店や、オーダーメイドの下駄屋、 レトロなおもちゃ屋に、色とりどりの石を扱うアクセサリーショップ。所狭しと並ぶ商品の山を目で 追っているうちに、いつの間にかお土産売り場のようなアーケード街を抜けていた。半袖のワンピー スを着た少女たちが私の横を駆け抜け、目の前に続く石でできた階段を勢いよく下りていく。私も、 誘われるようにその後を追った。
そこには九份の町と海が広がっていた。
おもわず息をのむ。晴れているとは言い難い。むしろ、天気は最悪だった。わずかに雨が降ってい るし、霧に包まれていて遠くまでくっきりとは見えない。だが、夕暮れが近づくほど、ここが現実世 界ではないような錯覚に陥った。それを助長したのが、この展望台に沿って建つ茶藝館の光景だ。赤い提灯がずらっと軒下に吊るされ、オレンジ色の光が暗闇の中で妖しく揺らめいている。その光があ まりに幻想的で、食い入るように見つめているうちに、もしこのまま夜になったら、路地が消え、帰れなくなってしまうのではないかという妄想が頭に浮かんだ。
人ではない何か、神様や霊的なものと、出会えるような予感がした。
「行きますよ」と、ガイドに声をかけられ我にかえる。もちろん、赤い提灯も路地も、来たときと は何も変わっていなかった。私がついて来た少女たちはどこへいったのだろう。 人に言ってはいけないものを見た気持ちで、私は九份を去った。