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宝島

右太ももの内側に、手のひらの半分の火傷の跡がある。

 世界地図のどこかにありそうな島みたく、いびつな縁取りで、肌色の真ん中にはっきりと浮かび上がって見える。

 私の実家は下町にある機械屋だ。発明が得意だった祖父が作った自慢の工場は、壁も屋根も緑のトタンで覆われ、お世辞にも綺麗とは言えなかった。1階の作業場からは四六時中、鉄を切る音や溶接の音、機械が動いている音が聞こえてきた。外にまで鉄や油の匂いが漏れ出していた。

 幼稚園生のとき、私の遊び場はこの作業場だった。2階に事務所があって、母や祖母や事務員さんが働いていたが、静かで代わり映えしないのが物足りず、こっそり抜け出しては1階に遊びに行っていた。作業場は宝の山だった。指の先ほどのネジがたくさん入った引き出し、半透明のシートに書かれた手書きの設計図、何に使うのかもわからない虹色のコード。おもちゃみたいな部品を使って、いつの間にか大きな機械を完成させてしまうおじさんたちが、誇らしかった。

 今思い返すと、不思議で仕方ない。あれは雨がうるさい日だった。一体どんな用途の機械だったか。後にも先にも、あんな形の機械を見た覚えはないし、なぜあのとき、高温に熱せられていたのかもわからない。ただ、私を置いて慌ただしく動く風景だけが、貧血を起こして気絶する直前のようにぼんやりと、今も思い出される。

 私はいつものように、母と祖母に隠れて作業場に遊びに行った。真ん中には完成間際の四角い機械が置いてあって、表面に「ここに座ってください」と言わんばかりの緩やかな凹みがあった。いつも以上に声を張り上げて喋るおじさんたちは、私に気がついていない。目を盗んで、そっと腰掛けた。
 次の瞬間には、私は冷たい鉄の机の上に座らされていた。いつも無口で無表情な工場長が、自分の方が火傷をしたような顔で「ごめんね」「ごめんね」とくりかえし私に謝っていた。騒ぎを聞きつけて駆け下りてきた祖母が、氷を入れた袋を私の太ももに押し当てた。それが痛くて、ボロボロ泣いた。トタンを叩く雨の音はうるさくなる一方だった。
 火傷のあとは水ぶくれになって、しぼんで治るまでに3週間くらいかかった。

 しばらくして、工場は移転されることになった。震災のあと、老朽化を心配してのことだった。祖父も亡くなっていたし、移転に反対する人は誰もいなかった。
 新しい工場は、壁も天井も白くて、床は目に優しいベージュだった。出入り口が頑丈なシャッターで仕切られていて、油の匂いが漏れ出ることはないし、騒音の心配もない。
 高校に上がった私は、遊びと習い事に熱中した。母の仕事を手伝うために、たまに事務所へは行ったが、顔なじみだったおじさんたちも定年で辞めてしまい、年の差がほとんどない若い男の人に会うのがなんだか気まずくて、作業場へは行かなくなった。

 それから数年が経った。免許をとった私は、春休みを利用して、練習のために近所を運転していた。ふと思い立って、カーナビの目的地を、昔の工場跡地に設定する。さも広大な土地だったから、きっと公園にでもなっているんだろうと期待して車を走らせる。
 懐かしい風景を進んだ先に跡地はあった。窓を開けて標識を見る。ここに間違いない。小さな家が2つ、隣り合わせで立っていた。窓から出した顔に風が当たる。そこは、工場が建っていたことの方が不思議なくらい、静かでひっそりとした場所だった。

 スカートをまくって、右の太ももを覗き込む。
 祖父が「女の子なのに傷が残っちゃって」と言った火傷のあとは、もうほとんど消えかかっていた。輪郭は少しぼやけて肌に馴染み、私が火傷をしたことを覚えているのは、もうこの世で私だけのような気がした。

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