統合失調症の幻聴に関する考察15
幻聴というのは存在だ。幻聴は神の存在と同等である、現実存在の必然性や偶然性というものに関わるもので、理性推論において、存在すべきであると判断するものだとする。
そして幻聴という存在に、人格を与えることで精神の知覚の統合を統一し、統覚として、完全性のある数式にしている。なぜなら、数式は完全性を包摂しないと完全な文章とはならない。
なので、理性推論の思索から生まれた存在者「幻聴」は、今日からトムという名前にする。
トムが聞こえてきたら、トムだ!!と思うだろう。
ややこしいから幻聴にしよう。
存在がなぜ存在するのか、というのは後にするとして、幻聴というのはまず知性であり、経験したものであることは間違いない。
では例えば、幻聴で、聞いたこともないフランス語が聞こえてくることはないだろう。それはフランス語を知らないからだ。知ってたら別だ。
つまり幻聴は、脳内にある記憶なのだ。
そして、知覚を触発する素材、つまり、幻聴の存在は、直感的に心を触発してくるはずだ。これは、無から何も存在する端緒が条件づけるものとして無いのと同じで、何か素材が条件づけるものとして、或る、からだ。
つまり、脳内にあるパターンでなくとも、よく似たパターン、パティーン、だと脳内で、ググッてみたりして、似ている!必然的に、これだ!と判断するのだ。これがニューラルネットワークの論争でも久しいコネクショニストのあれだ。統語論だ。
問題は、理性なのか、知性なのかだ。
今回は知性にするょ(><
知性は、わかりやすくいうと、今まで体験してきたことだ。
つまり、アルバイトで牛丼屋で働いてきた経験だ。
牛丼屋で働いた経験を元に、すべてを判断するしかない、それが理性推論だ。
しかし、その経験に、間違ったよーな経験をしてしまったらどうだろうか・・・。
例えば、洗脳。イデオロギー教育。
その知性を使って、我々が理性で判断する、理性推論の思索をすると、間違ってない、ほうと、咬み合わない。