家族機能:潜在的家機能性
以上のように、屋根と壁だけの建物は一見すれば家かもしれない。しかし家機能としては家とは呼べないものだ。私達が物事を認識する場合で、どこの外延から、そう判断するかではあるが、一見して見て認識し判断する場合、例えば、サファリパークのライオンが目の前に居たとして、しかし裏から見ればライオンじゃなく、看板であった場合などのような内部の意味や機能を駆使しない外延の認識と、もう一つ、実際に使ってみて、これは家だな。と思える、意味としての家の外延である。実際に住み、使ってみて、十分住めるし、家だ!安心!と思えるのであれば、実際の汎用的な一般の家の形で無くともいいわけだ。
たとえば、家以外の場所で考えて見よう。カフェは家ではないが、カフェで過ごす感じと、屋根と壁だけのいわば石でできた洞窟のようなパッと見たら家っぽい建物で過ごす場合、カフェのほうが過ごしやすい。何故?カフェならコーヒー一杯分くらいの金を払えば、安全と安心が確保できるからだ。フッカフカのソファーか、もしくは木でできた椅子とテーブルかもしれない。しかし尿意を催せば、トイレもあるし、何より、空調が整っていて、とても快適だ。余計な雑音はノイズキャンセリングヘッドホンのように、認知バイアスのより脳内フィルタリング処理で聞こえないし、BGMというフィルタリング処理を店内に施す店がだいたいなので、物事に集中する環境が、たった300円くらいの金を払っただけで確保できる。しかも、店員と呼ばれる人間が親切にサービスすら施してくれるのだ。しかしながら、そこは家ではないので、営業時間がすぎれば自ずと退散するしかなくなる。リーマン・ショック後のマクドナルド的なハンバーガーショップやガスト的なファミレスに家なきホームなし貧困層が移住を求めたのも、そんな感情の保全を伴える家機能があるからだろう。
つまり、感情の保全、安心ができることが家機能の第一の条件だ。次項では最低限の感情の保全には何が必要か列挙してみよう。
家機能に必要な条件等
カフェの項目でも少し分かると思うが、安心や安全の対価は労働価値や紙幣価値と釣り合っていない。遺伝子のように親から受け継いだ資産が貧困との差を生むように、もしかすると資本主義の崩落の一端かもしれない・・・。それはいいとして、何故、屋根と壁だけの家では家と呼べないのかだ。逆に、屋根も壁も無くても、家になるのだろうか?考えてみよう。まず椅子とテーブル、トイレ、快適な空調、周りの雑音、店員という他者からの人種差別がないサービス等。これだけでリーマン・ショック後のホームレスはある程度安心できたわけだが、何故だろうか。実は一番の要因は、他者との関係性なのではないだろうか。つまり、金を払ったので、権利がある。つまり人権的に、罪もなく、権利がある。市民権を得ている。何者でもない、客の一人というパーソナリティーの確保。それによる感情の保全が最大の感情の保全につながるのではないかと考える。どうだろう?
石でできた家への感情は死への抵抗そのものだ
生得的に前頭葉が発達した人類は、未来を予期する能力を得た。フロイトにより無意識という領域すら発見された。無意識には感情そのもののドグマが渦巻いている。その渦まくドグマをカフェやファミレス程度であれば軽減できるということだろうか。コンクリートできた部屋、まるで死者が火葬される棺桶のような、それとも罪を犯し投獄され収監された監獄のような部屋、いや家畜の豚が抗生物質漬けになっても生きることをする家畜小屋のような、石でできた部屋。それが屋根と壁でできた家だ。そこに意味は埋没していると思わないだろうか?そうだ、我々、人間は死んでいても生きていようがどうでもいい存在だということ、つまり誰でもいい、死ねばいくらでもかわりの労働力がいるということの意味がコンクリートでできた屋根と壁の家に埋没しているのではないだろうか?
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