No one can be me.〜娘がイギリスの学校で学んだこと〜
娘が学校の英語スピーチコンテストに出ることになりました。でも今月に入りコロナ陽性者が増えてきたので急遽生徒のみの開催に変更。。。
とても聞きたかったのですごく残念です。。。
なのでこの場を借りて、彼女のスピーチの内容をみなさんにシェアさせて頂きたいと思います。
彼女が訴えたい内容はずばり「日本の性教育」について。
娘は中学時代をイギリスで過ごしました。
学校で受けた「性教育」の授業が新鮮でとても驚いたそうです。
1番印象に残っているのは、ある女の子の日記をみんなで読んで、意見を言い合う授業でした。
日記の内容は「彼氏がコンドームをつけてくれない。どうしたらよいか悩んでいる」
といういうものだったらしいのです。
これについて、男の子も女の子も、みんなが口々に自分の意見を述べていきました。恥ずかしがることなく、堂々と議論を交わしていたのを、娘は呆気に取られながら、でもとても感動しながら聞いていたそうです。
また生物の授業ではコンドームの付け方を学んだそうです。
「性教育」の授業だけでなく、いろんな場所で私たち人間について、人間の心と体について学ぶ機会が設けられていました。
帰国して日本の高校で受けた「性教育」の授業にも違った意味で驚いたそうです。「保健体育」の授業の一部におさめられていて、それを期末テスト
に出て終わりというなんとも受身なものでした。
「これは全く実用的ではない!!おかしい!!」と思ったそうです。
また、もう一つおかしいと思ったのはLGBTQの問題について。
これもテストにちょっと出ただけ。一般的な性教育とひと括りにされていることに疑問を抱いたと言っています。
イギリスでできた友達の中にはいろんな子がいました。
彼女がいる女の子。丸坊主がとっても似合う女の子。
男の子と手を繋いで登校している男の子。
娘もある女の子から本気のラブレターをもらったり、付き合ってほしいと言われた経験まで。。。
でも彼女はそれは人間としてとても当たり前のことのように感じたといいます。
心と身体の性がちがう。
異性より同性を好きになる。
それらをそれぞれのカテゴリーに分けることすらおかしい。
多様性の時代だと言われているなら、分けて考える意味もわからないと。
みんな違うのは当たり前。
でもそういうことを知らなすぎる。知らなすぎるから偏見などが生まれる。
大事なのは知る事。そして受け入れる事。
そうするためにはもっと小さい頃から性について馴染みやすい環境を整える必要があると彼女はスピーチで訴えたいと言っています。
人を知る事。
違いを認めて受け入れること。
受け入れられるとわかっているからこそ、自分を自由に主張できる。
自分を守り、他者を守り、精神的にも自由でいられる社会へ向けて、
自分を大事にしよう。そのためには自分と他人を守るための勉強をしよう。
それは数学や歴史などと言った教科と同じくらい、「性教育」は大事なのではないか。
No one can be me. No one can be you.
誰も私の代わりはできない。誰もあなたの代わりはできない。
私も娘と同じようなことをイギリスで感じました。
1番感じたのは「自由」だということでした。
何を感じても、何を主張しても自由だなと。
なぜ「自由」なのか。
それはみんなが「自分と違うことを認めて受け入れている」という教育が根本にあるからこそだなと思いました。
賛同しなくてもいい。ただ自分と違う意見も存在すると認めること。
それが他者を尊重することになり、結果として自分を守ることにも繋がる。
これからの社会を背負っていく娘たち、若者世代。より多くの人が居心地がいいと思える環境を追求していく姿を大人も本気で応援していきたいなと思いました。