『海辺のレター』
「俺のこと、小説にでもして届けてくれよ、なんだっけ、海辺のレターってやつ?」
彼は振り返って、いつもより少し困り眉をして笑った。
この小さな田舎の村の海には、伝説があった。海をずっと向こうまで行けば、会いたかった人に会えるのだという。
その夜、海辺に彼と私はいた。
しゃがんで砂浜を適当にいじっていた私は、「何それ」と笑った。内心、不安だった。彼が困り眉をして笑うときは、決まって不安になった。
彼はそれっきり何も言わずに海を見つめた。
私は、「小説家でもないのに。第一、なんの話を書けっていうの?」そう言いながら、もう半分泣いていた。
分かっていた。彼が何処かへ行ってしまうことを。
翌日、彼はこの小さな村のどこにも居なかった。
朝早くに海辺を通りかかったおじさんが、海の中に人影を見たかもしれないと言った。暗くてよく見えなかった上に、次の瞬間には消えていたため、見間違いだと思っていたという。村のみんなは、海に攫われたのではないかと騒いだ。
ただひとり私は、彼は誰かに会うために、海の向こうまで行こうとしたのだと分かっていた。今まで彼に直接そう言われたことは一度もなかったが、彼は確かに海の向こうに誰かの面影を見ていた。
「行かないで」その一言が喉の奥まで出かかってもずっと言えなかったのは、そうすることで彼をもっと早く失う気がして怖かったからだ。
夜になっても彼は見つからなかった。
「伝説なんて、泡になって消えればいいのに」
その夜、私は海に行って泣きながら石を投げた。
「行かないでよ...」
崩れ落ちるようにして砂浜にしゃがみ込んだ。その時、あの時みた彼の困り眉の笑顔が脳裏に浮かんだ。
___海辺のレター。
呪いのようになったその言葉にしがみついて生きるしかなかった。彼に手紙という名の小説を書けば、彼が戻ってくるかもしれない。彼は見つかっていないのだから、まだ生きている。そう思いたかった。
それから、3年の月日が経った。あの日から私は、「海辺のレター」という題の小説を書いて、書いて、書いて、残すところ最後のページのみになった。実のところ、小説自体がほぼ完成したのはずっと前のことだが、完成したところでどうすることもできないのだから、最後の終わり方だけが宙に浮いたまま、3年が過ぎたのだった。
彼のことを書いている間、彼のことをまるで何も知らなかったことに気づかされた。彼がどんな風に生きてきたのか、彼は誰に会いたかったのか、彼は何を幸せとして、何に傷ついていたのかも。
だから彼がどんな風に笑っていたか、どんな風に海を見つめていたか、私の瞳に彼はどんな風に映っていたかだけを書いた。
私の小説の中で、彼は海の向こうまで辿り着いて、大事な誰かに会えたことになっている。小説の最後、彼が言う最後の台詞だけは、いつまでも書けずに空欄のままだった。
私は、この小さな村を出ていくことが決まっていた。都会に出て就職するのだ。知り合いのおじさんが港まで行く船に乗せてもらい、村の景色がだんだんと小さくなっていくのを見ていた。
結局、この村にいる間、彼は戻ってこなかった。
船の上、そう思いながら、手元に持っていた「海辺のレター」をパラパラとめくった。この先もきっと、彼の最後の台詞は思いつかないだろう。仮に思いついたって仕方がない。そもそも、彼はもう_____
ずっと考えるのをやめていたことが浮かんでしまい、私は滲んだ目で海を睨んだ。
酷い。酷いじゃないか。何が海辺のレターだ。この分厚く綴じられた誰の何を書いたのかよく分からない手紙は、受け取る人が戻ってこない限り意味を持たない。
「.....もう知らない!」
そう叫んで海辺のレターを、船から海に投げ捨てた。すぐに後悔が押し寄せ、せめてもの願いで小さく呟いた。
「届けたよ....。海辺のレター...。」
せめて、海の向こうの住所くらい教えてからにして欲しかった。
そう思いながら、呆然と海を眺める私を乗せ、船は進んだ。投げ捨てたそれは、呆気なく海の彼方に見えなくなってしまった。
船には、私の他にもうひとり、おじさんの子供が乗っていた。
船を運転するおじさんの方にいた子供は、船がもうすぐ港に着くためか、私の方にやってきて海を眺めていた。
「あそこ、うみからぶくぶくあわがでてる!おさかなさん?」
もう海を真剣に見る元気が無くなっていた私は、瞳を煌めかせながら海を指差す子供の頭を撫でながら「そっかあ、お魚さんかもねえ」と言い、笑顔を作るのが精一杯だった。
「あ!ちがう!しろいの!みて!」
ごみか何かじゃないかな...と思いながら、その子が指差す方に目をやると、白い紙のようなものが浮かんでいた。
___白い紙のようなもの。どこか見たことがあるような...
私はハッとして目を見開き、立ち上がると、子供に「危ないからここにじっとしてて、海を覗き込んじゃだめだからね!」と言い、急いでおじさんのいる運転席に向かった。
「おじさん!網ある?海に大事なものがあるかもしれないの、早く取らなきゃ、お願い、早く!!」
おじさんは何が何だかわからない様子のまま、切羽詰まっている状態の私を見て、近くに置いてあった、魚を掬い上げる用の網を渡した。
「ありがとう!」
そう言って私は子供の元に戻り、焦りながら海を見渡した。
「あそこ!」と子供が言う方を見ると、
網から掬える位置にその白い紙はあった。心臓からバクバク音がしながら、白い紙を大事に掬い上げる。
不思議なことに、その紙はどこも破れていなかった。
「おてがみ?」
子供は不思議そうな顔をして聞いた。
その紙には、文字が書いてあった。本から破られた1ページだった。そこに書いてあったのは、私が3年間、何度も読み返したことのある見慣れた文章だった。
「これ...海辺のレターの最後のページだ...」
それは、私が3年間、何度も読み返したことのある、見慣れた文章__
それは、私が最後まで書けなかった、空欄の鉤括弧、小説の中の彼の最後の台詞__
「最後の台詞は...空欄....だっ...はず....」
涙で視界が歪んでいく。
その鉤括弧には、ないはずの文字が入っていた。
「 海辺のレター、ありがとう。君が生きる限り幸福でありますように。心から。」
彼が誰かに会えたのかも、幸せなのかも、今寂しくないのかも、何もかもがこの鉤括弧の中だけではまるで足りなかった。それでも、海辺のレターは届いたのだ。彼は確かに存在していた。
私は突っ伏して大声を上げて泣いた。
そしてポケットに入れていたペンを取り出し、鉤括弧の隣に文字を書き殴った。紙は濡れているはずなのに、不思議と文字はひとつも滲まなかった。
「私が一生懸命生きたら、そこで会えるって約束して。絶対。」
一呼吸置いてから、その紙を海に戻した。
その紙は、海のずっとずっと向こうまで流れていくだろう。
「おへんじ?とどくの?だれに?」
子供が心配そうに私の顔を覗き込んで聞いた。
子供の頭を撫でながら祈るように答えた。
「届くよ。いつか私を、海辺で待っている人に。」
__ふわり、どこかで彼が困り眉で笑った気がした。