友だちとは他人である。肉親同士の「友だち親子」は息苦しい
ある文芸誌に子どもの自殺について書かれていた。
自殺した子の父親の思いが書かれていて、息子さんとは友達のような関係だったという。
部活動での不適切な指導による指導や、カンニングをした生徒への配慮の欠けた指導などを問題としていた。そこに大きな問題があることは確かで、問題提起は必要である。
暴力と理不尽な要求に希望をなくし、死んでしまう。カンニングがバレて進級できなくなり、死んでしまう。
本人にとっては、生きる価値をなくすほどの重大な出来事である。
しかし。それでも、「死ぬほどのことではない」「重大事だけど、死ぬよりマシ」「とりあえず、死ぬことはやめよう」こういったことを伝えられる大人がいなかったことが残念でしかない。
私は一度だけ中学生の頃、死んでもいいかな、死にたいなと思ったことがある。
親や教師にとって、勉強やスポーツができない子どもなど無価値なので、私は無価値だった。
他人にとって無価値な人間は生きていてもしょうがないし、自分も面白くない。死のうかな…と思った。
ただそのとき、私はチェッカーズにはまっていた。
バカの一つ覚えのようカセットテープで涙のリクエストだの、星屑のステージだのを聞いていて、それが幸せだった。頭も体も鈍く、気の利いたことも言えない、容姿も大人から褒められるようなものは持っていなくても、チェッカーズなんかのファンをやる資格もないようなさえない中学生だったけど、自分の好きなチェッカーズの歌が聞けなくなるのは嫌だった。だから死ななかった。死ぬのが少しだけ怖かったのもあるけど。
生きている理由は今も大して変わらない。
自分が死ななかった理由ってこれかな?他にはないのか?
違うかもしれないけど、もしかして親が放置してくれていたせいもあるかもしれない。
親は親であって親以外の何者でもない。友だちは友だちであって親でも兄弟でもない。多いも少ないもない。いるもいないもない。クラスメートや同じ部活の子は友達である。仲が良かろうが悪かろうが友だちは友達である。親と友だちは水と油ほど違う。なのに、今、親とは友達みたいな関係という子どもが多い。子どもと友達だと言う親が多い。
友だちは入れ替わる。しかし親はずっと同じである。
親が子どもの友だちというのは悲劇である。
我が家は悲惨なことも多かったが、概ねその悲惨さは喜劇であった。
今生きていることも喜劇だがそれでいい。
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