ひっさびさにオトナ帝国を見て
最近岡田斗司夫さんのYouTubeを観て、アニメの文学的演劇的文脈から理解できる、真に表現したかったことを知るのに、ハマっている。
もちろん岡田斗司夫さんの考察の深さと解説の上手さもすごいのだが、なによりも創作者の知識量に圧巻する。
そして、受け取り手と創作者の認識のズレにも気付かされる。
わかりにくいものは、全て解説しなければ、理解できないのだろうか、わかりやすさが正義なのかという悲しみと、
アニメを描けるだけでなく、なぜそこまで文学を知っているのだろうか、深い物語を紡ぐことができるのだろうかと、弱小創作者としての焦りを感じた。
昨日もロシア文学、ドストエフスキーについての講習を受けるぐらいだし、吸収が足りない。
それはさておき、今回は岡田斗司夫さんのアニメ解説シリーズで、モーレツに観たくなった、クレヨンしんちゃんの「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」を観た。
平成のアニメ映画の中では名作中の名作と名高いこの作品、過去に観たことはあった。
しかしなんとなく観た程度では見逃しが多いことに気付かされ、全体の物語だけでなく、アニメ表現や彼らの言動や間に注目しながら、鑑賞した。
まず、最初、あるはずのない大阪万博にいる、その状況をごく普通に受け止める野原一家の違和感から始まる。
大人が嬉々として喜ぶ昭和の黄金期の世界観体験に付き合わされる子ども。
そして、20世紀博の合図で、家族を捨て、子どもに戻る大人。
大人が一心不乱にお菓子を貪り食う様は、こんな誰でも知っている身近なもので恐怖を表現できるのかと感心した。
緊迫感の中でも、久々にみたしんちゃん節、子どものちょこまかとした動きと、しんちゃんがもたらす緩和のバランスは本当に素晴らしい。
とことん重くなってしまう、わたしの作品に、緊張と緩和のテクニックは、どうにか持ち込みたい表現力だ。
そして、突如来る、子ども時代のひろしの世界にやってくるしんのすけ。
秋田の田舎町に生まれたひろし。親の体に捕まって自転車で連れられる夏休みの光景から、チャリの荷台に恋人を乗せた青春時代、そして就職とともにひろしが乗るものは満員電車に変わる。
社会人生活の中、彼の人生の回想にはなかった辛い状況が目立つ。
それでも、家族といる時は、ひろしの表情に明るさは戻る。子どもの頃の親がしてくれたようにケツにしんのすけを乗せて、上手から下手に、未来に向かって進み続ける。
ひろしがハリボテの万博セットの真ん中で、赤子のように丸まってしんのすけを抱きしめる様、過去に戻りたい思いを持ちながらも、彼が捨てられなかった家族愛の深さに号泣した。
この回想シーンの柔らかい表現を出すために、次から作るMMDモデルのエッジを茶色にしようと、映像表現についてもちゃんと学びを得た。
そして、ケンとチャコの関係性や背景について注目が進む。
奥深く素晴らしい作品、
大人と子どもが対立した時、力が弱いはずの子どもが大人の心を大きく揺さぶることだってあるのだと、常に未来志向の彼らに救われることがあるのだと、教わった。
観てよかった。
私は子どもが好きだ。