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金城一紀「友が、消えた」を読んで
注意1:
以下の文章は金城一紀さんの新著「友が、消えた」について、現時点で思いついたことのメモというか断片的文章です。ネタバレが多く含まれますので、未読の方は読まないでください。
注意2:
以下の文章は、現代社会問題、特にジェンダー問題に引きつけて「友が、消えた」を解釈しています。振り返って考えると、やはり引きつけすぎというか、ゾンビーズシリーズの良さを矮小化してしまっている気もしてます。金城一紀の良さは本当にここにあるのか、改めて読み直しながら反省している次第です。
ただ、こうした問題を無視するのではなく、ガチンコでぶつかっていって、その先にあるものを見ようとするのが金城一紀的なものなんじゃないか。そしてそうした問題を踏まえてもなお残る「なにか」を大切にするのが、真にハードボイルドなんじゃないか。そんなことを思ったりもして、とりあえず消さずに出してみます。とはいえ、金城一紀の小説をそのように読みたくない方もいらっしゃることと思います。その場合はここで手を止めてもらえるとよいかもしれません。
誤配された「男らしさ」の暴力と向き合うこと:ボーイズ・クラブとゾンビーズ的なものをめぐる断片
待望の新著でした。前作「レボリューションNo.0」から13年、ついに来たか…!って表現は実はあんまりしっくりこなくて、金城一紀ならいつか書くだろうという安心感と、「ほらやっぱり!」みたいな高揚感が入り混じったなんともいえない感情です。
このnoteにご関心ある方にはもはや説明不要かと思いますが、今回の作品はゾンビーズシリーズの続編でした。ゾンビーズシリーズというのは金城一紀さんが「レボリューションNo.3」から続けている小説で、オチコボレ高校に在籍している主人公の南方が、仲間たちがさまざまなトラブルを解決する冒険譚です。かくいう私もモローの「君たち世界を変えてみたくはないか」ってセリフにやられてしまい、あんな先生になるんだと背中を押された結果、日々教壇に立っているわけでありますが、あれから四半世紀、どちらかというと「友が、消えた」の小林みたいになってんじゃないかって怯えています。人生は難しい。
さて、今作はその南方が大学生になったあとの物語、いわば大学生編でした。大筋でいえば仲間と離れ離れになり意気消沈している南方が、新たな友達のトラブルに巻き込まれていくお話というべきでしょうか。ただこんな内容の要約は無意味かつ無粋と思いますので、以下、いくつか現時点で考えていることを書いてみます。
カテゴリーの融解
これまでのゾンビーズシリーズから大きく変わったと思ったのが、登場人物の多様性です。たとえば、トラブルを持ってくる結城は南方たちが在籍していたオチコボレ高校の隣にあった進学校出身で、これまでの作品でいえばどちらかといえば敵対的な、とまではいえないけど少なくともいけすかない、いわゆる優等生タイプのやつでした。また、物語のキーマンとなる志田は、大学内のサークルで大金を稼いでいて、いわばSPEEDの「中川」的なやつ。こいつもこれまでなら敵役として出てきそうな雰囲気です。
ただ、結城にせよ志田にせよ、いけすかなさはありつつも、今作の南方は彼らともある種の関係を作り上げていきます。志田にいたっては、親友のヒロシ的なものを引き継いでいるようにも見える描写もありました。
「優等生」とか「金の亡者」みたいなカテゴリーを通していけすかない人物を書くのは、技術的難しさはありこそすれ、容易い。ただ今作では、これまでのゾンビーズシリーズを下敷きにして、既存のカテゴリーを融解させるような人物が多数登場し、そしてそうした人物たちが、そのカテゴリーに自分を位置づけていった成り立ちを丁寧に描いていたように思います。
同様に、「男性/女性」みたいなジェンダーカテゴリーについても揺さぶられています。SPEEDの岡本さんの友達たち(リツたち)が出てくるんですが、彼女たちはこれまでの舜臣を匂わせるような、明確に「強い」存在として描かれています。残念ながら私も「強い」と括弧つきで書いてしまいましたが、このような表現が可能になるのは、我々が女性を相対的に弱い存在として強固に認識しているからでしょう(※1)。いわば女性カテゴリーの”あたりまえ”の認識を揺さぶるようなキャラクターが印象的でした(吉村恭子もそのような描かれ方をしていたように思います)。
読み込みすぎかもしれませんが、こうした固定化されたカテゴリーの融解は、既存の当たり前の世界に揺さぶりをかけるような、ある種の革命的な試みといえるかもしれません。
ボーイズ・クラブ問題
ジェンダー問題と関連して、ボーイズ・クラブの捉え方、あるいはボーイズ・クラブ的なものへの向き合い方が、今作の一つのテーマになっていたように思います。ボーイズ・クラブとは、男性が「男らしさ」を基本理念として、女性を排除し、同性愛を嫌悪する形で作り上げられる集団です。しばしばホモソーシャルなどと呼ばれたりもします。
本作に出てくるボーイズ・クラブ的なものは2つあります。一つはゾンビーズの仲間集団です。そしてもう一つがESSC(ESSCから派生したクズ男集団というべき?)。ESSCは(志田を除き)卑劣なレイプ集団で、女性をモノのように扱った履歴でマウントを取り合い、男らしさを誇示することで結束する集団として描かれます。無論、ゾンビーズがトラブルを解決したのは、くだらない男らしさのためなんかじゃないわけで、それについて、今作でも南方が逡巡しています。歴代読者としては、ESSCクズ男集団とゾンビーズは違う!と言いたいところですが、そうとも言い切れないんじゃないか?というのが、今作の重要なポイントでした。
実は、「SPEED」の段階から萌芽はあります。学園祭から逃げる場面で、岡本さんがゾンビーズの男たちに追いつけなかったシーン。ゾンビーズは男らしさのためにやっているわけではなかった。でも、岡本さんは追いつけなかった。
今作では北澤の存在が印象的です。ゾンビーズが学園祭に侵入する姿に憧れて「男らしく」なろうとした。そして、ある事件がきっかけとなり、そこに漬け込まれた北澤は大きな過ちを犯す。北澤の顛末の端緒にゾンビーズの冒険があったのは、もはやいうまでもないでしょう。どんなに本人たちにその意識がなかったとしても、周りの人々はゾンビーズをボーイズ・クラブとして認識し、ときには壁を感じ、時には憧れるというわけです。
思うに、ここがボーイズ・クラブ問題の難しいところなのでしょう。そこにいたのはたまたま男性だったというだけ、いかなる作為もなかったとする。しかし、集団の主体が男性である以上、そのように感じられて”しまう”。つまり本人たちの意識とは無関係に、ボーイズ・クラブは成立してしまう。そして、間接的ではあるにせよ、彼らの冒険が悲劇的な結末の引き金を引いたならば、ゾンビーズは、ESSCクズ男集団のそれと変わらないんじゃないか。
一人の男性として、上記の問題は非常に考えさせられました。もはや、ボーイズ・クラブの成立は、個人の思想や感情を超えた問題となっている。男性が複数存在し、なにかをすること。これがボーイズ・クラブの条件となってしまう。そんなのあんまりだと思う反面、たしかに無意識に男性的なコミュニティを求めてしまうことがあった気はしています。イベントを企画してもなんやかんや男性客のほうが多いし、なんかやろう!ってなると、結局男だけで集まることが多い。心のどこかで「それでいいや」と安堵している自分がいる。こうした無意識に作り上げられたボーイズ・クラブが、意図せず女性を排除してしまっているということは、大いにありそうです。
この問題とどれだけ関わっているのかは正直わからないところではありますが、今作において、南方はゾンビーズの仲間の力を全く借りていません。メールは常にチェックしてたけれども、自分から送ることはなかった。また、助けを求めるのも女性が多かった。絶体絶命のシーンで舜臣かのごとく南方を助けたのはリツだったし、情報を集めて渡してくれたのも吉村恭子でした。新たな登場人物である矢野も、財力や人脈など(男性的)力はありこそすれ、それを使ってすべてを解決しようみたいなくだらないことはしない。むしろ、CM収入のくだりからは、そうした力を持ってしまった自分に対する卑下た眼差しすら感じる。そんな男性的なものの不能性を象徴するようなキャラクターだったわけです。
というわけで、ボーイズ・クラブ的なものへの反省的視線が随所に見られるのが、今作の大きな特徴だったように思います。しかし、反省していればよいかといえばそうではなく、このボーイズ・クラブ的なものの過去の冒険が、あらぬところに届けられ、具体的な問題となって立ちはだかるわけです。
引き金問題
「おまえが直接スイッチを押したわけじゃないけどな」。
本作ではこのセリフが何度か出てきます。上述したように北澤は、ゾンビーズに憧れた結果、過ちを犯します。この憧れは、無論、南方たちの責任ではない。彼らは北澤を直接そそのかしたわけではないのだから。しかし、直接スイッチを押したのは彼らでないにせよ、そのきっかけの一つではあったのも、間違いない事実ではある。防犯カメラが増えたのも、ゾンビーズが学園祭を襲撃したから。ゾンビーズが引いた引き金が、まさしくゾンビのごとく今の自分に跳ね返ってくる。ボーイズ・クラブとして成立してしまったゾンビーズは、世界の誰かを傷つけたことが、まざまざと示されているわけです。
ジェンダー問題がこれだけ議論されている昨今ですから、露骨なジェンダー差別を見る機会は、無論まだまだあるにせよ、減ってきているとは思います。しかし、男らしさは本人たちの意識を超えて「誤配」され、誰かに影響を与え、暴力を作り上げてしまう。
これは、単純な因果応報みたいな話(※1)ではなく、いわば世界を変えること、およびその誤配をめぐる問題です。
レボリューションNo.3においてモローが「君たち世界を変えてみたくはないか。」(p.21)と高らかに宣言したときから、世界を変えることはゾンビーズシリーズの中心的な主題でした。ぼくたちが生きているのは、すべてが思い通りになる理想的な世界なんかじゃなくて、どうしようもないことが蔓延っていて、でも多くの人が「まあこんなもんだろ」って諦めている。これはレボリューションNo.3から一貫して描かれているモチーフで、そんな世界に革命(レボリューション)を引き起こす方法はあるんだというモローの教えのもと、南方たちはトラブルとともに生きてきたわけです。
でも、本作で描かれたのは、自分たちが行った革命が(少なくとも誰かにとっては)過ちの引き金として誤配されるような、そんな世界でした。このことに南方は激しく混乱します。ゾンビーズは男らしくあろうとしたわけではなかった。だけれども、誰かにとってゾンビーズは男らしさの象徴として理解された。そして、そのことが、直接的にではないにせよ、引き金を引いてしまった。
世界を変えること。それは他の誰かにとって暴力にもなりうる。我々は、こうした暴力にどのように向き合うべきなのか。
まず、「世界を変えることを諦める」という戦略がありうるでしょう。世界の側は、この諦めを巧妙に迫ってきます。例えば、レボリューションNo.3の「異教徒たちの踊り」の中でこんなシーンがあります。ストーカー犯を捕まえたあと、犯人である柴田は、最後に「君たちの中からも、いずれ〈わたしたちの側〉につく者が現れるだろう」(p.272)という捨て台詞を吐く。つまり、世界ってやつは思ったよりも強力にできていて、君たちがやっている革命とやらは結局のところただのお遊び、そのうちみんな既存の世界の側に取り込まれるってわけです。しかも今作でわかったことは、革命は結局のところ、誰かに誤配され、暴力に加担してしまうかもしれないということでした。だったら革命なんかせずにさっさと諦めて、ただ世界に従っていれば良い。無駄な抵抗はよせ、というわけです。
無論、「異教徒たちの踊り」のときはゾンビーズの仲間がいて、世界が諦めを迫ろうとも、自分たちの革命を信じることができました。しかし、今作ではゾンビーズの仲間はいません。いや、いたとしても、ゾンビーズ的ボーイズ・クラブが引き金を引いていると言われている以上、安易に助けを求めることもできない。だからこそ、南方は思い悩むわけです。
引き金の誤配とランダム性
本作の最後の方、南方はかつて引いた引き金のけじめをつけるため、小林と対峙しに行きます。ただし、上記の誤配された引き金にけじめをつけるとは、一体どういうことなのでしょうか。南方は小林と対峙し、「いつも見張ってるぞ」と言います。しかしその一方、「そんなことできるわけない」ことも認めている。また、自分にできることをやり終えた南方は、一縷の望みを託して、アナウンサーとして社会的に影響力のある吉村恭子に、北澤と小林をめぐる事の顛末を話します。吉村恭子なら小林に対しより強力な社会的制裁を与えられる可能性があると考えたからでしょう。しかし、そんなこと簡単にできるわけもなく、「ごめんね」と謝られてしまう。できたとして、北澤の痛みを小林にわからせることなどできないし、なによりも、かつて自分たちが引いた引き金を消し去ることもできない(※2)。
誤配されたものの責任を取ることは、極めて難しい。もちろん、誤配の責任などないとする立場もありましょう。しかし、少なくとも南方は、今作において、この責任を痛感してもがき苦しんでいます。なぜか。それは、ここで安易にこの責任を放棄してしまえば、上述した「世界を変えることを諦める」という戦略を採用することになってしまうからです。事実、万策尽きた南方は、「世の中なんてこんなもんだろ」と考えた上で、「本当に。本当にそうなのか?」と問う。この自問は、諦めの肯定に対する自問のように見えます。
しかし、南方は吉村恭子の「あんたのせいじゃないのよ」に対して、「でも」と答えたあと、続きが言えない。諦める以外の選択肢を取るべきだ。それはわかっている。でも、その答えを知らない。「異教徒たちの踊り」における柴田への応答と同じく、まだ言葉と選択肢が足りない。
そんな南方に、もう一つの選択肢を見せたのもまた、吉村恭子でした。彼女は言葉を失う南方に対し、自分が世界の側に取り込まれそうになったときの話をします。しかし、彼女は世界を変えることを諦めなかった。なぜなら、かつてのゾンビーズとの冒険が、革命を諦めるなと、背中を押してくれたからです。つまりゾンビーズは、北澤だけでなく、吉村恭子のスイッチも押していたというわけです。
個人的に、本作において最も感動したのはこのシーンでした。この吉村恭子のセリフから見えてくるのは、「諦める」以外の、もう一つの可能性です。我々は、直接的であれ間接的であれ、どこかで様々なスイッチを押してしまう。もちろんそれが悪いスイッチのこともある。でも、誰かの背中を押すスイッチだってあったはずだ。つまり誤配は悪いものだけではない。だからこそ、「世の中なんてこんなもんだろ。」って諦める前に、なんでもいいからスイッチを押して、少しずつでもいいから世界を変えてみる。今は悪いスイッチが押されてしまうかもしれないけど、世界が変わるスイッチが押され続ければ、そのうち世界はびっくりしてひっくり返るかもしれない(※3)。
革命は、当事者の意図とは無関係に誰かへと誤配され、ランダムに引き金を引いてしまう。しかし、この引き金がもたらす帰結は悪いものだけではなく、なにか良い方向に戯れることもある。これをとりあえず「引き金のランダム性」と読んでおきたいと思います。引き金が引かれなければ、何も起こることはない。しかし、起こり得る帰結がランダムであるならば、それが良い方向へと転がるように祈るしかない。
ボーイズ・クラブや男らしさの暴力を無条件に肯定しているわけではありません。事実、上述したように、今作ではゾンビーズの仲間たちは出てこなかった。もし引き金が引かれさえすればよいのなら、彼らを登場させて、これまでのボーイズ・クラブ的冒険譚を続けるだけでよかったでしょう。そうではなくて、その暴力性を自覚して向き合い、下手な引き金は引かないように注意すること(※4)。そして、その上で、引き金を引き続けること。最後に吉村恭子が提示した選択肢とは、このようなものに他ならないでしょう。
世界を変える思想というのは、無碍に誰かを傷つけるようなものではなく、しかし誰かを無意識に傷つけてしまう暴力性にも自覚的であるような、そんな思想にほかなりません。本作で金城一紀が示そうとした思想とは、つまるところそのようなものなのではないか。特にオチなどはないのですが、今書きたいことは書けたと思いますので、このへんで終わらせたいと思います。
なぜ金城一紀はこのような思想を描き出すことに成功したのか。このあたりについて、筆者としては対話哲学者であるバフチンが、ドストエフスキーの小説に見出した「できごと性」や登場人物の未完結性、そして対話の未完結性あたりを基に紐解いてみたい気もしているのですが、それはまた別のお話でしょう。気が向いたらまた書いてみます。
脚注
※1:ここでの女性の「強さ」が、ある種の肉体的な武力として描かれていたのには若干引っかかりました。ベタすぎるというか、やはり女性が男性的「強さ」を追従している構図になるからです。そもそもそうした男性的基準から降りることも、ジェンダーの議論では重要になってくるように思います。
ただし、これは過去作品を見ていなければわからないわけですが、やはりリツの強さは、単なる男性的強さではない点には注意が必要でしょう。つまり、スタンガンを食らっても立ち上がるようなゾンビーズのなかでも最強だった舜臣を引き継いだキャラクターとしてリツは導入されています。舜臣が強いのは、男性だからではなく、舜臣だからでしょう。男性だってあんなに強い人はいないわけですから。よって、単なる強さ=男性的強さ=肉体的武力といった単純な図式はミスリードなようにも思います。
※2:ここもまた、小林の加害性を描き出すのに、同性愛というモチーフを使われていた点に、やはり引っかかりました。ただ、本作がある種の男性性を主題の一つとして上げているとすると、すくなくともストーリー上は理解可能なように思います。男らしくあろうとした北澤の物語の起点として、男性性の剥奪を理解可能にする出来事がある、というわけです。ホモソーシャルは、ホモフォビア(同性愛嫌悪)を通して結束力を高めることが指摘されており、そうした集団およびその一員として北澤を描き出すために、同性愛が導入されたのかもしれません。また、ESSCのレイプ事件は、おそらくスーパーフリーのレイプ事件を題材としています。であるならば、北澤的なものは、ジャニーズ問題を背景にしているといえるかもしれません。かと関係ないですが、多摩キャンパスはやっぱり所沢キャンパスなんだろうか。
※3:ちょっと読み込み過ぎかもしれませんが、吉村恭子のセリフを見て、個人的にはレボリューションNo.3でモローが言っていた遺伝子戦略の話を思い出しました。モローは、優秀な遺伝子と出会うために革命を起こす必要性を説きます。無論、遺伝子は専門的に精緻な議論ではなく、メタファーだと理解したほうが良いでしょう。また、遺伝子だって、良い方向に才能が発現することもあれば、良いものが消えてしまうことだってありうる。それでも新たな遺伝子と出会い続けるべきなのかが、本作では問われているといってよいかと思います。
※4:おもえば、己の暴力性へ向き合う視座は、レボリューションNo.0において、すでに示されていたように思います。全校生徒がグラウンドに集められ暴力を振るわれているとき、モローは背筋をまっすぐ伸ばし、生徒たちを見つめていました。モローに現在行われている暴力を変える権限などない。いやむしろ、教員として、この暴力を作り上げる一員となっている。今作の表現でいえば、間接的ではあるものの、モローはこの暴力のスイッチを押してしまっていたわけです。でも、それでもモローは視線を向け続けていました。自分が暴力の担い手になった責任を取るために。