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アマチュア哲学を語らう夜に向けての往復書簡 第四便 阿部→柿内
2025年2月14日に当店・学術バーQ(東京・上野)で開催予定の対談イベント「アマチュア哲学を語らう夜」。この会に向けて、メインスピーカーの柿内さん・阿部さんお二人に「往復書簡」の形で文章を書いていただくこととなりました。アマチュアとして世界を楽しむには?〈良きアマチュアイズム〉とは何か?〈アマチュア〉なるものをめぐる、お二人のやりとりをお楽しみください。
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学術バーQのマガジン『柿内正午 × 阿部廣二往復書簡企画:2025.2.14「アマチュア哲学を語らう夜」に向けて』
柿内さま(と「あべさん」?)
いよいよ寒さ極まるといった気温で春の兆しすらみえない昨今ですが、いかがお過ごしでしょう? 寒さに極端に弱い私は夜だけではなく日中も湯たんぽを抱いて過ごしています。
さて、お返事感謝です。いやはや、「あべさん」にはやられました。私がお返事をする前に、もうすでに「あべさん」が返事を書いてくれていたとは。本物と違って仕事が早い(現在締め切り後の0:22、ごめんなさい…)。
さて、お返事内に気になったこと、面白いことがいくつもあったので、いくつか素朴に考えていきたいと思います。
まず「あべさん」の応答から。
最後に、気になる問いかけをいただけなかったことも含めて、逆にこちらからも問いを投げかけさせていただきます。
まずこの部分、我?ながら、失礼じゃないですか? 私には、なにか柿内さんが問いを書き残さなかったことを非難しているように見えます。ただ、ここであべさんがやろうとしていることが、これが柿内さんがご指摘の「型」ってやつですよね。往復書簡の末尾には、なにか芯を食った問いをつけるのがお約束の型ってわけです。
思えばいろんな型があります。例えば、実は私、人見知りなんですよ。「実は」というのは、「普通はそう見えない」ということを含意しています。普段は非常勤の授業などをして生計を立てているのですが、なんか、授業ではペラペラ喋れるんですよ。だからよく絶対人見知りじゃないでしょって言われます。でも授業で喋れるのは教員の「型」があるからなんですね。あるいは「教員/学生(生徒)」のコミュニケーションの型があるからといってもいいかもしれない。
私が自身の人見知りを自覚するのは、この型が通用しない事態に遭遇したときです。例えば駅で学生さんとばったり会ったときなどは、なに喋ったらいいかわからず困惑して焦ってしまう。その意味で、柿内さんがおっしゃった、型の中にいる限りでは恥じらいと無縁でいられそうというのは、大変良くわかります。教員を始めた頃はちょっと違ったんですが、今は授業中どんなにスベっても大して気にしません。授業内に配置されるすべての物事は学習のために存在していると思っているので、学生さんたちがなにか感じ取ってくれたらそれでいい。あ、でも私が恥ずかしがったほうがなにか効果がありそうと思ったら恥ずかしがるかも。実際に今期の授業でそんなシーンがあったのを思い出しました。ただこれも機能的に配置されているという点では型内に収まっている感じがします。一方、駅でばったりの場合は本気で焦っています。
ここまで書いていていくつか思ったことがあります。
まず、これは柿内さんもご指摘のことと思いますが、この型からの逸脱が恥じらいを生むということです。道祖神場における「家族」の顔、教員における学校の外(プライベート?)など、型に突如亀裂を生じて、ある背景が顔を覗かせることがある。その背景に、人はある種の恥を感じるのかもしれません。
ただ、そこにこそ魅力を感じることも、やはりあります。研究会とか学会でも、中身じゃなくて、なんでそんなことしたくなっちゃったのかが見えてきた時、やっとその研究を好きになれる気がする。逆にそれが見えてこないと、専門家として客観的に淡々と判断することになります。無論、学問として精度を高めていく時、客観的であることは悪いことではない。でもやっぱり私は研究者である前の「その人」を見たい気がする。専門家になるっていうのは、その人でなくなることなのかもしれない。
じゃあ型にハマることが悪いことかというと、それもまたなんか違う気がするんです。むしろ、型があるからこそ、逸脱という現象が生まれるもいえる。本当にまっさらな「その人」なんかいなくて、型との関係があるからこそ「その人」は見えてくるのでしょう。型にもハマりきらず、かといって素朴な「その人」でもないようなアマチュア的な恥じらい。私がアマチュア的なものに惹かれるのは、まさに型の只中で恥じらいを感じ続けるからなのかもしれません。
話がだいぶ変わり、ここまでは真面目バージョンというか、アマチュア的なものの倫理を考えていたのですが、もっとふざけたアマチュア的スタンスもあると思うんです。例えば、先日のM-1グランプリでも連覇を達成した令和ロマンが、漫才の中でこんなことを言っていました。
ケムリ:犬が欲しいんですけど
くるま:ああ犬ですか、犬だったらこの子とかね、かわいいですけど
ケムリ;ああそうなんですか
くるま:アマチュアダックスフント
ケムリ:アマチュアダックスフント?アマチュアなんすか?
くるま:うん遊びでやってるだけ
ケムリ:遊びで犬やってるんすか
くるま:うん嫌になっちゃう
ケムリさんが犬を探しにペットショップに行くという設定のお話ですね。ネタの内実はとりあえず置いておいて、ここでは「遊びでやってる」という発話に着目したいと思います。このネタを見て気づいたのですが、我々は一般に、暗黙のうちに「アマチュア」を「遊びでやるもの」だと理解している。少なくとも、ネタ内において、ケムリはくるまの発言を問題なく理解しているように見えます。観客がこの発言を聞いて笑うのも、アマチュアと遊びの概念間のつながりを十分に理解した上で、それらと「犬」概念のつながりに意外性を見出しているためでしょう。
アマチュアは遊びでやるものであるならば、やはり専門家やプロは仕事でやってるということになるでしょうか。「遊び/仕事」概念の結びつきも興味深いところですが、ここでは遊びが持つ可能性の方にも目を向けてみたいと思います。
アマチュアは遊びでやるもの、仕事でやってるプロとは違う。こう書くと、アマチュア側からすれば、専門家された世界に入れないもどかしさというか、すこし突き放された感じがします。ただ、遊びだから”こそ”、できることもあるように思います。例えば、アマチュア虫屋※の人たちは、採集道具の代理品として、よく100円ショップの商品を使っています。Twitterを探すと、虫屋100円ショップグッズを紹介しているアカウントがあるので、よかったら探してみてください。この道具の使い方が大変おもしろく、アマチュア的精神をよく表しているように思います。
※ここでのアマチュア虫屋とは、「職業研究者ではない虫屋」くらいの意味です。
100円ショップの道具がなにがいいかといえば、第一に安いということです。また、関連して、壊れても諦めがつきやすく、加工等も躊躇せずにできます。なにより、型として存在する”正規の”採集道具を、100円ショップの道具を使って遊び的に逸脱する楽しみがあるように思います。
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職業研究者としてやっていくなら、予算が十分にあり正規品だけ使っていればよい(最近ではなかなか難しさもありますが…)。ただ、アマチュアの世界で生きることは、経済的、時間的制約とともに生きることです。むしろ、こうした制約があるからこそ面白いともいえるように思います。
無論、柿内さんが前便で指摘するように、アマチュアと専門家は二項対立になるわけではありません。事実、プロの研究者も100円ショップの道具を使うことはありますし、彼らも経済的/時間的制約を生きています。なので、カテゴリーで分けるのではなく、活動とその中にある遊び的な精神のようなもの(もある)と考えたほうが良いのかもしれません。
ちなみに、近しい研究として、松浦さんたちのコスプレイヤーの道具制作に関する研究があります。コスプレイヤーの100円ショップ事情などが反映されていて大変おもしろい論文です。先日の学会で別の研究者の方もセリアとダイソーの違いについて熱弁されていました。100円ショップは魔境です。
最後にこれはまだちゃんと考えられていないのですが、AIの型と文化的な型の違いです。↑で授業のときは恥ずかしくないと書きました。ここでの「阿部先生」は、AIの「あべさん」に近いのでしょうか。どちらも型にはめることでコミュニケーションを成立させている点、恥じらいと無縁になる点で類似しているように思います。一方で、なにか違いがある気もする。というのも、コロナ禍以降、オンデマンド講義が結構あるのですが、この映像上の「阿部先生」は、どちらかといえばAIの「あべさん」に近い感じがするんです。変化しようがないというか、確定してしまっている感がある。一方で教室は型があるとはいえ、不確定性に満ちあふれている。このあたりになにか思考のヒントがあるんじゃないかと思って、とりあえず雑にネタとして投げておいてみます。
お返事に触発され、調子にのって思いつくままダラダラと書いてしまいました。もはや応答と呼ぶにふさわしい文章かわからない感じもしていますが、一方でぼんやりと輪郭が見えてきている不思議な感触があります。我々が当たり前にやってきたような、それでいてとても新鮮な、そんな感覚です。とはいえ、輪郭は何度も書き直すものだと思いますし、柿内さんの軽やかさで思考を新鮮にかき乱していただければ幸いです。お返事楽しみにしております。
阿部
▼本企画の登場人物
柿内正午(かきない・しょうご)
ただの会社員。「町でいちばんの素人」を理念とし、いち生活者としての非専門的な読み書きによる雑駁な活動を行なっている。著書に『プルーストを読む生活』、『会社員の哲学』など。
阿部廣二(あべ・こうじ)
東京都立大学特任助教。昆虫採集を行う人々(虫屋)が虫を採集するプロセスについて、認知科学の観点から研究しています。また、会話や身振り、伝承など、人々が日常的に行っている実践に広く関心があります。
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