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ショートショート近未来の格闘家事情

タケルは静かに呼吸を整え、トレーニングルームの真ん中に立っていた。目の前にはサンドバッグが揺れ、その向こうには父親とAIロボットが並んで彼を見つめている。

「いいぞ、タケル。次の試合に向けて、メンタルは強く保て。お前の体は完璧だ。」父親の声が響いた。
かつて格闘技界を牽引した父、今は息子のメンタルトレーナーとして、試合前の心を整える役割を担っている。

タケルは無言で頷き、拳をサンドバッグに打ち込む。固い革が彼の拳を受け止め、筋肉が震える。

「身体データは順調です。反射速度が1.2%向上。心拍数は正常範囲内です。」
隣に立つAIロボットが淡々と報告する。その機械的な声が、タケルの動きに合わせて次々とデータを集め、最適なトレーニングプランを提示する。

2週間後に控える試合は、タケルにとって非常に重要な意味を持っていた。
ただの勝ち負けではない。今回は絶対に負けられない理由があった。


今の格闘技は、かつてのように直接体をぶつけ合うものではなくなっていた。試合は仮想空間で行われ、選手たちは自らの身体データを正確にコンピュータに読み込ませ、そのデータを元にアバターを作成する。

このアバターは、選手の肉体能力を完全に再現するものであり、試合中に受けた攻撃の痛みや衝撃もリアルに感じることができる。アバターが殴られれば、実際に殴られた時と同じ痛みが選手に伝わる仕組みだ。だが、たとえ意識を失うほどの打撃があっても、実際の肉体にはダメージは残らない。システムが選手の身体を完全に守るのだ。

タケルはこのルールを肯定的に捉えていた。仮想空間で戦うとはいえ、自分で鍛え上げた肉体と精神が試されることに変わりはない。仮想であろうと、そこにあるのは現実の戦いだ。彼は自分の鍛えた体と闘争心に誇りを持ち、プロの格闘家としてのプライドを感じていた。

しかし、だからこそ今回の試合は絶対に勝たなければいけない試合だった。対戦相手は、格闘技の歴史を変えかねない存在だったからだ。


試合前日の記者会見。カメラのフラッシュが飛び交い、メディアの注目を一身に浴びていたのは、タケルの対戦相手、トーマス・アンダーソンとネオ・アンダーソンの兄弟だった。

トーマスは人類最高傑作と言われるほどの驚異的な身体能力を持ったトップアスリートとして名を馳せていたが、温厚な性格のため、人を殴ることができないという格闘技をする場合、致命的な欠点を持っていた。

そんなトーマスの体を操るのは、弟のネオだった。ネオは虚弱体質であり、現実のリングに立つことはできないが、仮想空間での格闘ゲームにおいては誰もが一目置く才能の持ち主だった。驚異的な反射神経と冷静な判断力で、数々のバーチャル試合を制してきた。

今回の試合では、トーマスが自ら鍛えた肉体をネオが操作し、戦うという前代未聞のスタイルが導入された。プロの格闘家としては史上初の試みであり、世間の注目は高まっていた。

会見でトーマスは柔らかな笑顔を見せ、「僕は自分の肉体を鍛え続けてきた。でも、戦いの場に立つのは弟です。彼なら僕の体を完璧に動かしてくれると信じています。」と語った。

一方、ネオは自信に満ちた声で、「兄の体は完璧です。それを操るのが僕の仕事。ゲームのように、すべての動きを完全にコントロールして、必ず勝ちます。」と断言した。

タケルは二人を見つめ、心の中で苛立ちを覚えた。このような戦い方が認められてしまえば、格闘家の存在意義そのものが揺らぐ。鍛えた肉体で戦う者が価値を持たず、誰かの体を操作して勝利する世界が訪れるかもしれない。そんな未来は、タケルにとって受け入れがたいものだった。「これが許されるなら、もう何でもありだ。」タケルは心の中でつぶやいた。


試合当日、仮想空間でのリングが整えられた。タケルは自分のアバターに全てのデータを読み込ませ、静かに構えを取る。一方で、トーマスの肉体をネオが操作するために準備を整えていた。

タケルは自分の拳を見つめた。「この体で戦う。それが、俺の誇りだ。」彼はその信念に揺るぎないものを感じていた。

一方、ネオは冷静に指を動かし、トーマスの肉体を完璧に操る準備をしていた。アンダーソン兄弟が一つの体を使って戦うという異様な状況に、観客たちは息を飲んで見守っていた。

試合のゴングが鳴り響く。タケルは猛然と突進し、ネオが操るトーマスの肉体がそれを迎え撃つ。仮想空間での激しい攻防が続く中、タケルはこの新しい格闘スタイルがもたらす影響を、彼は肌で感じ始めていた。

これからの格闘技では、もう肉体そのものが誰のものであるか、どれだけ鍛えられたかは、もはや意味を持たなくなりつつあったのかもしれない。仮想空間での戦いは進化を遂げ、格闘家の存在意義すら問い直される時代が訪れようとしていた。

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