浪人期の思い出を振り返る
つれづれなるままに、noteを書いてみようと思います。
きっかけはTwitterの複数のフォロワーがnoteをやっていて、面白そうだなあと思ったのと、言語化能力が著しく低いのでその練習をしたいと思ったからです。理由なんてなんでもいいんだよ!
何を書こうか迷ったのですが、大学受験の振り返りでもしようかなと思います。受験についてまともに振り返ったこともなかったのでいい機会かもしれないし。合格体験記とかじゃなく、ただの振り返りです。
ざっくりした軌跡
現役京大総人落ち(✨-196点✨)
一浪河合塾九大理落ち(点数忘れた)
二浪駿台京大人健合格
一応現役も振り返る
高2ぐらいから京大に憧れて、絶対受からないような成績でしたが浪人してでも京大に行くことを決意しました。現役時の共通テストは7割ちょい下回るぐらいでしたが構わず特攻、そして爆死。196点差落ちという悲惨な点数を叩き出しました。ここから浪人生活が始まりました。
一浪です。暗黒期です。
友達が現役で通ってた、なんか雰囲気がいいとかいうよくわからない理由で河合塾を選びました。twitterで浪人垢(厳密には予備校垢)を作りました。「n=1 河合塾 京大総人志望」とか書いてた。リアルで友達を作ることが難しく浮き気味だった自分にとっては貴重なコミュニケーションツールでした。
twitterのおかげで友達ができてよく一緒に自習してました。ただtwitterは当時不謹慎ネタとかめっちゃ流れてきて辟易したので夏頃にはやめた。友達は理系科目がめっちゃできる人だった、勉強への取り組み方とかもかなりしっかりしていたと思う。いろいろ教えてもらったけどアホすぎてまともに消化できていなかった😭
ひたすらテキストの問題をやりこんだつもりでしたが全然理解できてなくてなんとなくの理解で乗り切ってました。そして周りと比べてもっと根本的なところから勉強する必要があったのに気付いたころには冬になっていました。まあそりゃ約200点差で落ちるポンコツじゃ話が違う、そしてそれに気づくのが遅すぎたのもポンコツすぎた、バカすぎる😭
模試は全部最低判定(EまたはD)でした。京大オープンの一番低い判定がDなのを知らずにDで喜んでいたのが恥ずかしかった。
自分の中では熱心に勉強しているのに何で伸びないんだ?と悩んでました。そのまま受験を迎え、共通テストで爆死して地元の九州大学に出願先を変えました。例の超難化した共通テスト数学1Aですが、僕はもともと出来が悪かったため難化に気づきませんでした(照)
そして二次試験、なんやかんやで超テンパって英語が間に合わず爆死、数学も死亡。大問1しかできんかった。落ちて絶望のどん底へ。二浪突入。中学不登校だったのもあって社会からのドロップアウトは慣れてたけど、代わりに親に申し訳ない気持ちが大きかった。
二浪は駿台に通いました。理系科目と現代文は駿台の方が自分に合ってました。英語は河合塾のテキストが良かった。
一浪と同じくtwitterを作って友達を作りました。これまたエグ実力の持ち主ばっかでした。一浪の頃は途中でtwitterやめたけど二浪はずっと見てました。というのも、真面目なアカウントとかちゃんと勉強してる人も多かったからそういう人をフォローして原動力にしてました。あとは京大生とかもフォローしてた。
二浪では一浪時の勉強法を反省して、勉強日記とか、模試の分析とか書くノートを作ってました。結構効果あったと思う。
あとは数学では解法ノート作って何度も見直してた。これがなかったら一生受からんかったと思うし、そっから再現性とか一般化とかそういうことを他の科目でも考えるようになった。みんなはこういうの無意識にできてる、あるいはどっかで習ってるんだろうか。
模試は工学部の工化志望でA~Cをうろついてました。一浪の頃あんなだったから二浪の割にって感じですが。
ただ自分でも京大の問題が解けるんだっていう自信がついたのはデカかった。ちなみに秋の京大実戦の数学は本当に悲惨でした。
その後共テ爆死して工学部から人健に出願先変えました。出願先マジで死ぬほど迷った。バンザイなんちゃらとひたすらにらめっこしてたけどさすがに時間の無駄やと気づいて勉強に戻った。その後はメンタルの悪化と戦いながら頑張って勉強しました。
入試本番
数学易化傾向なのもあってたくさん解けた。英語和訳多めで良かった。
割と手応えもあって流石に受かったなと思いましたが流石に3/10は緊張しました。もう見なくなったけど、3/10の浪人界隈の盛り上がりは好きです。
番号があったときは安堵の気持ちが大きかったです。ちなみに工学部に出していたら落ちていたようです。
かなーーーーーり駄文になったけど、いろいろ振り返っているうちに当時の感情とか学んだ教訓とか思い出せてよかったです。いろんな人に支えられました。またなんか書くかも。