「マルチバース」第3話
●モルグ2、1985年12月8日(日)
「気になったから、調書にはまだ書いていないことがあるのよ。ちょっと電話して調べたの」
「なんだ?気になったってたというの?」
「遺体と一緒に、彼女の持ち物も搬送されてきて、これは証拠品として署に戻したわ。それでIDを見たの。ニューヨーク市立大学(CUNY)なのね、彼女の大学は。NYU(ニューヨーク大学)じゃないわよ」
「CUNYなんて珍しくないじゃないか?」
「彼女、マスターコースなの。それで、専門が犯罪心理学なのよ。大学のアドミに無理言って調べてもらった。IDにあったカレッジ名からするとそうなのかなあ、と思ったのよ」
「犯罪心理学?」
「そう、私たちの分野よね?」
「だけど学生だろ?」
「それでも、同じフィールドだわ、臭うのよ、私には」
「う~ん・・・」
「検屍官がそれ以上立ち入ってはいけないわね?後は、ノーマン?警視さんの領域ね?」
「なるほど。まあ、参考になったな」
「まったく、こんなに若くて綺麗な子が殺されるなんてね。アメリカって嫌な国よね?」
「しょうがねえだろ。ここはニューヨークだからな」
「さ、以上、私の話はお仕舞い」
「ありがとう、マーガレット。どうだい?今日は?夜勤じゃないだろ?」
「5時に交代が来るわ。でも、ノーマン、ダメよ。家に帰るのが怖いからって、私を誘っては」
「読まれてるな」
「ちゃんと帰って、奥さんに謝って、私とは何ともないって言わないとね」
「疑われてるんだぜ?」
「じゃあ、疑いを解きなさい。何でもないのは事実なんだから」
「俺は残念だよ、何にもない、何でもない、ってのがな」
「あら?ノーマン、私が残念じゃないって思っているとでも?・・・さ、帰って。私、書類仕事がたまっているんですから・・・」
俺は車に乗り込んだ。キーを差す。マーガレットは今なんて言った?『私が残念じゃないって思っているとでも?』と確かに言ったな?ま、だから、どうなんだ?と。
俺はエンジンをかけて、元の道を戻った。ま、いずれ遺族が来るだろうから・・・日本人だろ?英語がわかるんだろうか?・・・まあ、いい。どうせ、早くても遺族が来るのは数日後だ。明日考えよう、と俺は思った。
●絵美と洋子1、1983年1月15日(土)
ぼくと絵美は銀座をぶらついていた。並木通りのレストランで食事をしたり、ウインドーショッピングをしたりした。なぜか、彼女はぼくと一緒の時に下着を買いたがる。それもきわどい下着を買うのだ。そのくせ、ぼくらはセックス一歩前までいきながら、出会って3年近くも経つのにセックスをしなかった。別に彼女が拒んでいるわけではない。ぼくもそれほど求めているわけじゃない。なぜなのか、二人共わからない。なんとなく、未来のある日に、プレゼントが渡されるみたいなことが起こるんだろう。
就職して、アルバイトは止めてしまったが、時々ぼくは新橋の第一ホテルに行って酒を飲んだ。バーテンダーの吉田さんはまだ働いている。アマネさんはある時から何もホテルに言わずに来なくなったんだそうだ。フーテンでもしているのかもしれない。
当時の新橋の第一ホテルは今はない。1989年に老朽化していた新橋第一ホテル本館は閉鎖、1992年には新橋第一ホテル新館も閉鎖された。今あるのは、閉鎖された跡地に建てられ再開業した第一ホテル東京だ。ホテル運営会社自体は、2000年に経営破綻して、阪急阪神ホテルズが運営するホテルチェーンのブランド名で残っている。
夕方になって日もくれた。ぼくらは、銀座8丁目から右に曲がって、新橋第一ホテルに向かった。泊まるわけじゃない。最上階のバーで酒を飲むつもりだった。
エレベーターに乗り込んだ。ぼくらだけだ。絵美は腕をぼくの腕にからませた。
扉がほとんど閉まりそうになった時、だれかがボタンを押したんだろう。扉がまた開き始めた。「ゴメンナサイ」という声がして、女性が乗り込んできた。そこに黒のトレンチコートのポケットに手を突っ込んで立っている洋子がいた。
ぼくと洋子が同時に「アッ」と声をあげた。絵美が怪訝な表情でぼくと洋子の顔を見比べた。「明彦、お知り合い?」と絵美がぼくの顔を見て尋ねる。ちょっと考え込んでいる。絵美と洋子はお互いの顔を見ている。
「明彦、ご紹介してくださらない?」と絵美がニコッとして言う。ぼくは二人を見比べた。背の高さも同じ、小顔も同じ。二人共、もし他人がすれ違えば見返るように目立つ。「ああ、え~、こちらは島津洋子さん。こちらは森絵美さん」と言うが、どうにも気まずい。でも、二人共ニコッと笑って「初めまして」と言う。
「宮部くん」と洋子が気を利かしてぼくを名字で呼んだ。「お久しぶりね。森さん、素敵な方ね」
「あ~、どうも」とぼく。何を言えば良いんだ?
「ところで、何階に行くの?まだ階のボタン、押してないわよ」と洋子が振り返ってエレベーターの操作盤を指差す。
「ああ、最上階です」
「バーね?」
「ハイ」
「私もバーに行くところだったのよ。でも、お邪魔かしら?どうしましょう」とニヤニヤして洋子が言う。
絵美が「明彦、どうせなら、島津さんもご一緒してお酒を飲みましょうよ」とニコニコして絵美が言う。「あら、森さん、ご一緒してよろしいの?」「私はご一緒したいですわ」「じゃあ、そうさせていただこうかしら」ぼくにとっては空気が重い。
ぼくは我慢しかねて「絵美、洋子、ニコニコ、ニヤニヤして、これは勘弁して欲しい。いつもの調子で行こうよ。どうせ、絵美には洋子の話をしてあるし、洋子にも絵美の話はしてあるんだから」
「なんだ、つまんないわね。このエレベーターの中が水銀で満たされているようなままでバーまで上がったら面白かったのに」と洋子。
「私も洋子さんと呼ぼう。たしかに、明彦の顔を見ているだけで面白かったわ。洋子さん、明彦からあなたの話は聞いています」
「絵美さん、私も明彦からあなたの話は聞いているわよ。最初は加藤恵美さんかと思ったけど、これは絵美さんじゃないかと思ったの」
「あら?メグミさんの話まで?まあ、そうよね。私に出会うよりも先に洋子さんに明彦は出会ったんだから。時間軸の順番というわけではありませんけど。そう、年上の女性みたいだったので、洋子さんだと見当をつけました」
エレベーターが最上階に着いた。フロアに出ると洋子もぼくのもう片方の腕にしがみついた。両手に花ってことかな。やれやれ。
左手に曲がって、数段の階段を降りる。右手にバーカウンターがあって、バーテンダーの吉田さんがいた。こりゃあ、カウンターってわけにはいかないなあ。
吉田さんが「お!明彦、久しぶりだな。あれ、島津さんと森さんもご一緒?お二人共お久しぶりです。カウンターですか?」と聞かれる。
吉田さんは絵美と洋子をよくお客として見知っていたし、ぼくは彼女らを吉田さんに紹介したのだ。もちろん、別々に。だから、二人がぼくの両手にしがみついているので、これはなにか修羅場か?とでも思ったのかもしれない。「吉田さん、お元気そうで。テーブル席をお願いします」と答えた。
吉田さんが頭をフリフリして、一番奥の4人がけのテーブル席に誘導してくれた。一番奥。他のお客様の迷惑にならない席。
どう座るかな、と思っていると、二人は並んで腰掛けた。ぼくは二人の正面席へ。弁護士と心理学専攻の学生の正面。被告席なんだろうか。
吉田さんが「何になさいます?」と聞く。絵美も洋子も「明彦、いつもの」と声を揃えて言う。
「え~、牛のたたきを2つ、チーズの盛り合わせも2つ・・・洋子、食事は?」「軽く何か」「じゃあ、ピザ、マルガリータのラージを1つ。お酒は・・・絵美はマーテルのXO?ロック?じゃあ、ブランディーをダブル、ロックで。洋子はピンクジン?タンカレーベースでダブル、グラスで。ぼくは・・・グレンフィディックを・・・トリプル、ロックでお願いします」ふぅ~、やれやれ。
洋子が「二人共、ここにお泊り?」と聞く。絵美が「いいえ、銀座をぶらついて、それでお酒を飲もうという話で。洋子さんは?」「私は新潟からの出張で、ホテルは帝国ホテルに泊まってるの」「あら?帝国からこっちにわざわざ?」
「ここは馴染み深い場所だから、ね?明彦?」とぼくを見てニタっとした。
「絵美さん、明彦の顔を見ていると面白いわね?」
「私、楽しんでます」
「そりゃあ、そうよ。正面に本命の彼女と年上のガールフレンドが座ってるんじゃねえ。どういう顔をしていいやら、迷ってるわよ」
酒と料理が来た。「二人とも、乾杯しよう」とぼくが言うと、「何に乾杯?誰に乾杯?」と絵美が意地悪く言う。「そりゃあ、ボーイフレンドが本命の彼女を連れてエレベーターに乗っているところに、偶然乗り込んだ年上のガールフレンドとの再会に乾杯でしょ?」と洋子。「絵美、洋子、うるさい!ぼくたちに乾杯!」
洋子は、グビッとジンを飲んでしまう。絵美はいつもはチビチビと舐める飲み方だが、洋子につられてグビグビ飲みだした。やれやれ。酔うと絡んでくるんだろうなあ。頭の悪い女の子なら、その絡み方も楽しめるが、この二人だと、どんな搦め手で絡むかわからない。