縄文海進と古神道、神社、天皇制(24)朝鮮半島渡来のウソⅡ
「縄文海進と古神道、神社、天皇制(23)朝鮮半島渡来のウソⅠ」の続き
朝鮮半島と日本の距離、まあ、地図でも眺めましょう。
【朝鮮半島と日本の距離感】
対馬
【地理概況】
日本海の西の入り口に位置する対馬島は、九州本土より玄界灘と対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡)をはさんで約132キロメートル、朝鮮半島へは対馬海峡西水道(朝鮮海峡)をはさんで約49.5キロメートル(国境まで、釜山とは75km程度)の距離にある。
対馬と本土、朝鮮半島、東京駅の地図
地図の上の部分は、対馬と本土、朝鮮半島の地図。同心円は50、100、150キロメートルです。対馬の最北端と釜山は約75キロメートルです。最南端と平戸とは約100キロメートルです。朝鮮半島の方が近い。
地図の下の部分は、東京駅からの同心円で50、100、150キロメートルの距離。
対馬の最北端と釜山の距離は、東京駅から平塚程度。最南端と平戸の距離は、東京駅から沼津程度。
屋久島と本土、朝鮮半島、沖縄の地図
では、次の地図。地図の上の部分は、屋久島と本土、朝鮮半島の地図。同心円は50、100、150キロメートルです。屋久島の最北端と大隅半島は約75キロメートルです。対馬と釜山の距離と同じです。
下の地図。地図の下の部分は、沖縄と本土・中国の地図。同心円は50、100、150、250、500、1,000キロメートルです。沖縄と台湾・長江地域(上海近辺)は750キロメートル程度。鹿児島県とは600キロメートル、福岡とは800キロメートル、釜山とは900キロメートル。
だいたい、これで、朝鮮半島と日本の距離感がわかるでしょう。
【縄文人のルーツ、ブリヤート人】
縄文海進と古神道、神社、天皇制(10)クローヴィス彗星でも書いたように、一万数千年前の最後の氷河期のヴュルム氷期の終了間際、バイカル湖岸には現在のロシアやモンゴル国、中国に住むモンゴル系民族であるブリヤート人の先祖が住んでいた。
確実に言えるのはそれが12,786年前以前、このブリヤート人の一支族が、ハバロフスクからアムール川の支流のひとつであるウスリー川沿いに南に進んだ。その頃は、間氷期の寒の戻りで、地球平均気温は現代よりも8℃ほど低かった。
日本海は氷結しており、海底でオホーツク海と結ばれた巨大な塩水の氷湖だった。彼らが着いたのはそんな氷結した日本海の沿岸、ウラジオストックあたりだった。
12,785年前、ウラジオストックにたどり着いたこの部族は、12,785年前のある日、巨大な火球がはるか北方を西から東に動いているのを見つめていた。轟音を発して彗星の尾のような噴煙を残して、火球は北の空に消えていった。
現代クローヴィス彗星と呼ばれるこの火球は直径が4キロほどもあったろう。6600万年前、恐竜を絶滅させた小惑星の直径が16キロ程もあったと言われるので、それよりも遥かに小さい彗星であったが、十分に地球の生命の大部分を絶滅に追いやる大きさだった。
クローヴィス彗星の衝突によって巻き起こった塵のために、その頃、現代よりも8℃ほど低かった地球平均気温をさらに7.7℃低下させた。最終氷期のヴュルム氷期と同じ気候が起こったのである。
その状態(塵埃が大気圏を覆う)は十数年続いた。12,785年前から11,600年前まで1,200年間続くヤンガードリアス期の始まりであった。
地球の寒冷化は、彗星の衝突範囲から考えると大西洋沿岸の方が太平洋沿岸よりもひどかった。しかし、太平洋沿岸も少なからず急激に寒冷化した。
ウラジオストックあたりに移り住んでいたブリヤート人の混血部族は、寒冷化に押されるようにして南に移っていった。そして、日本列島にたどり着いた。
こうして、後期旧石器時代の文化を持つブリヤート人の混血部族が日本の縄文人の祖先となった。
後期旧石器時代の文化を持つブリヤート人の混血部族が日本の縄文人の祖先となった。三万年前の前期旧石器時代にも日本列島にたどり着いた部族がいたかもしれない。
その部族とブリヤート人の混血部族がどう関係したのか、混血していったのかは定かではない。遺跡は残っているが、その集団がヤンガードリアス期を生き延びて大規模集落を形成するに至ったのか、ブリヤート人の混血部族とさらに混血して飲み込まれてしまったのか、私は後者だと考える。
それから、アイヌ民族、沖縄の島嶼人は、その他の地方の日本人よりも縄文人のDNAを色濃く残しているようだが、縄文人そのものではなく、彼らも他の大陸系部族との混血をしているようである。
【ヤンガードリアス期以降から縄文海進まで】
12,800~11,600年前に起きた彗星による地球寒冷化のヤンガードリアス期も終わり、海面は徐々に下がっていった。ブリヤート人の混血部族も海面上昇が始まる前に列島の津々浦々まで広がっていった。沖縄までもだ。
やがて、海面上昇は、列島を分断した。本州、北海道、九州、四国、列島の島嶼部にわかれていった。しかし、それで、分断された島々の交流交易が途絶えたであろうか?
私は、彼らの間でかなりの交流交易があったと想像する。その方法は、丸木舟と筏だ。筏?考古学調査で筏なんてでないじゃないか?という人もいるだろう。
しかし、では、なぜ筏が遺跡から出土しないか?というと、筏は縄で縛って建造する。縄がほどければ単なる丸太なのだ。だから、筏が出土することはまずないであろうし、丸太は住宅に使ったり、焚き火に使ったりする。つまり、縄文人は、大型の筏でかなり遠方まで移動しており、荷物の積載量も丸木舟とは比べ物にならないほど運んでいたのだ。交易品はかなり多かった。
【縄文海進】
6,900年前頃、完新世の期間で、縄文海進の頃は、日本列島の海岸線が最も後退した時期であった。現在よりも海面は3メートル以上高かった。この海進の時期は、6,900年~5,000年前ぐらいの期間続いた。
本州、北海道、九州、四国の海岸線は数キロ、数十キロメートルにわたり後退し、列島の島嶼部の中には標高が低すぎて居住に適さなくなった島々もあっただろう。
その頃、朝鮮半島の民族はどうだったか?というと、あちらも日本人と同じ混血の産物だ。日本よりも混血の度合いは低いが。
中国の先史時代は、
長江文明(紀元前14000年頃から紀元前1000年頃まで)中国長江流域
黄河文明(紀元前7000年頃から紀元前1600年頃まで)黄河の中・下流域
遼河文明(紀元前6200年頃から紀元前500年頃まで)中国東北部の遼河流域
この中で、長江文明は、中国の文明の発祥は黄河流域であり、その後次第に長江流域といった周辺地域に広がっていったとの見方があったが、浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)により、この説は覆される。
河姆渡遺跡は紀元前6000年から紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。ちなみに、黄河文明、遼河文明は華北の地であり、稲作には適さない。長江文明こそが稲作の発祥地だ。
河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものであり、それまでの「中国文明すなわち黄河文明」という当時の定説を大きく覆す事になった。
更に、東北の遼河周辺でも文明の痕跡が発見されるに至り、現在では遼河周辺、黄河上・中・下流域、長江上・中・下流域に分類し、それぞれが互いに影響しあい、かつ独自の発展を遂げていったと考えられている。
長江文明を築きそれを受け継いでいる正確な集団は判明していないが、楚・呉・越がそれに相当すると考えられ、また現在四川省涼山に住む少数民族イ族がその末裔ではないかと考察する者もある。
つまり、長江文明は華北の漢民族の築き上げた文明とは違う。むしろ、今の中国の少数民族、インドシナ系の民族の先祖が築き上げた文明ともいえるのだ。むろん、時代が下がるに従い、それら民族も漢民族という混血集団に飲み込まれたのだが。
このような民族分布を考えると、朝鮮半島の縄文海進の頃の朝鮮民族の構成は、
北部 ー モンゴロイド系民族、華北の漢民族の一部、長白山脈を超えて陸伝いで移民
南部 ー 長江民族(弥生人)、釜山の地域は縄文人(ブリヤート人、ごく少数)、海上路を通って、上海、九州から移民
と北部は中国華北、モンゴル優勢、
南部は、中国華南、日本列島(ごく少数)優勢
だったのではないか?
フランク・ロイドの『縄文海進と古神道、神社、天皇制』 INDEX
縄文海進と古神道、神社、天皇制
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