恭子と明彦、エピソード Ⅰ
恭子と明彦、エピソード Ⅰ
●1981年12月7日(月)
卒論の締め切りまで後2週間。
まったく進んでいない。データ収集も解析も終わったが、データのプロットが残っている。視覚化しないと説得力がなくなる。
21世紀の現在なら、100×80のグリッドに対して、各波形の方向、速度の2パラメーターを落とし込むなどPCで簡単に出来てしまう。しかし、ぼくが話しているのは、20世紀、それも80年代の話。大学のコンピューターを使い、フォートランでプログラムを書いて、ドットマトリクスプリンターで打ち出そうと思ったがうまくいかなかった。
それで、仕方がない。厚手のA2のトレーシングペーパーに、100×80のグリッドをステッドラーの青の細ペンで書き、グリッドの交点に2パラメーターをベクトルで黒の中太ペンで書くことにした。
グラフ用紙を下に敷き、その上にトレーシングペーパーを固定する。T定規で5mmおきに線を引く。縦線102本、横線82本。紙面に垂直にペンを立てて、力を均等に引いていく。非常に疲れる作業だ
が、これは線引きだけだから集中力さえ持続すれば楽だ。この作業に3日かかった。
次は、8000ポイントのそれぞれ方向と長さ(=微分値で表現した速度パラメーターを長さに換算した物)を書き込まないといけない。大学のコンピューターで出力した演算値と見比べながら、ベクトルをペンで書き込む。1000ポイントにかかった時間が2日間。残り7000ポイントでは後14日間。これでは論文本文を書く時間がなくなる。
ギブアップした。ダメ。
その時に恭子が電話してきた。
「明彦、連絡がない!」と恭子。
「卒論でヒィヒィいっているところでね、ギブアップ、タイムエクステンションを教授に申し込もうか考えているところなんだよ」
「あら、それで、音信不通だったのね」
「そうなんだ」
「何でつまずいているの?」
「8000ポイントのプロット。ステッドラーで方向と長さを書き込まないといけないんだ」
「あら!私にも出来ることじゃなくて?」
「う?・・・そうだな、恭子、工業デザインが専門だなあ・・・」
「出来るわよ、私に。考えなくていいなら・・・」
「データはある。360度の数値情報と長さ情報はプリントアウトしてあるんだ。それを傾きと長さとを測りながらプロットするだけだ」
「2人で出来る仕事?」
「A2のトレペだから、右と左から攻めていけばいいな」
「わかった。今から行って手伝うわよ」
「いいの?」
「まかせて!」
援軍が来るんだから、もっとやっておかないと、とそれでも300ポイントくらい進んだ。そこに階下からチャイムの音がして、母が「明彦、恭子ちゃん来たわよ」という。おっし、来た来た。階下にドドドと降りて、「ありがとう、何か飲む?」と訊く。「さっさとかたづけちゃおうよ」と彼女。
ぼくの部屋にあがって、A2のトレペを見て彼女は、
「うへぇ~、これなの?」という。 そりゃあそうだ。A2のトレペにマス目にベクトルの矢印がギッシリだもの。
「そう、これ。やっと1300ポイントくらい終わったところ」
「2人でやれば1週間かからないわよ」と彼女。
恭子はぼくの友人の女の子(微妙ないい回しだなあ)の中でもっとも背が低い。155cmだ。漫画のアラレちゃんに似ている。ウールのミニのワンピース。パープル。ストッキングもちょっと濃いパープル。化粧なし。薄いピンクの口紅だけ。どうみてもぼくの3才年下とは思えない。
「今日はとびきり可愛いじゃん?」
「幼いっていいたいんでしょ?手伝ってくれるからって、お世辞はいわなくていいことよ」
「いつものジーンズに目が慣れているんだよ」
「たまにはスカートはいてもいいでしょ?」
「だから、可愛い、っていったんですよ」
「無駄口はいいから、さっさと片づけましょうよ」
彼女の手はぼくの手の指の第一関節くらいかな?(どっちが第一関節で、どっちが第二関節なんだ?指の先端に近い方の関節だ)非常に小さい。小さいから器用だ。100×80のポイントデータの読み方を教えると、もうすらすらと手を動かして、ぼくの2倍のスピードでプロットしていく。プロットを間違うとカッターで削ってやり直しだが、彼女はミスをしない。
彼女とは数年の付き合い。時々デートして、映画を見て、森羅万象を語り。彼女が高校の時は、現代国語や古文、漢文、物理、化学の宿題の手伝いをした。(ぼくは物理科なんだけれども、実は、得意なのは現代国語なのだ)
●1981年12月11日(木)
4日たった。
ぼくだけでやっていれば、4000ポイント程度しか終わらなかった。恭子のプロットが早い分、もう7000ポイントをプロットした。A2の左右から攻めていったので、プロットをしている場所はほぼ中央部。恭子が上からプロットして、ぼくは下からプロットする。50cm弱のトレペの上下でプロットしているのだから、時々手がぶつかり、彼女の髪の毛がぼくの顔の前にあったりする。シャンプーとコロンの香り。
時々、ぼくの友人(男だ)が、明彦は誰が一番好きなんだよ?と訊く。そんなこと決められるか!という。女の子は、セックスしてしまった子もいれば、キスだけ、会話だけ、さまざまだ。何故セックスしてしまったのか皆目わからない子、したかったからしたという子、いろいろだし、キスだけ、会話だけというのも愛情の多寡ではない気がする。いったいぼくは何を考えているのか?なんてことを訊かないで欲しい。ぼくにもまったくわからないのだから。
恭子とは軽いキスだけ。それもふとしたはずみで1回しただけで、それ以来、ぼくらはキスしたってことに触れていない。
「明彦、疲れた!」
「ゴメン、大変だな、こりゃあ」
「何か飲みたい」
「コーヒー?マンダリンでいい?今挽くからちょっと待っててよ。ミルク入れるか?」
「ううん、ブラック、砂糖なし」
「りょうかい」
ぼくは階下に降りて、コーヒー豆をガリゴリ挽いて、パーコレーターに粉を放り込んで、コーヒーを作った。
家族は仕事に出ていて、家には誰もいない木曜日の昼下がり。
コーヒーをマグカップに注ぎ、2階に持っていく。
恭子は最初の日と同じウールのミニのワンピースを着て、同色の紫のストッキングをはいていた。ぼくのベッドに腰をかけ、太腿の下で手を組んで、自分の足の指を見ていた。ミニのスカートがずりあがって、太腿がみんな見えるのだけれども、彼女、気がついているんだろうか?
可愛い、なんてものじゃない。小さな鼻、小さな唇。妖精の耳がクレオパトラカットの髪の毛からのぞいている。華奢な手足、小さく細い指。壊れてしまいそうな子だ。窓から1月の弱い日差しがそそぎ、ベッドの上の彼女を照らす。すべて静まりかえっていて、フェルメールの油絵のような光景だった。
「あら、コーヒー出来たの?」と恭子。
「あ・・・ああ、熱いよ」とぼく。
彼女の横に坐って、マグカップを渡す。彼女はちょっと口をとがらせて「ちょっと訊いていい?」という。
「何?」
「この前、私たち、キスしたわよね?」彼女は膝にアゴをあずけて、下から見上げるようにして訊いた。
「うん、したな」
「なんで?」
なんでって・・・ぼくの頭の中を千の理由が去来したけど、なんでなんだ?
あれは、雨の降る土曜日の晩だった・・・
●1981年11月7日(土)
雨のそぼ降る11月の土曜日、さて今日は何をしようか?と、朝起きたぼくは考えた。
絵美は・・・卒論の準備で忙しいのとかなんとかいっていたな。ぼくだって卒論があるはずだが、まあ、まだ締め切りまで時間がある。じゃあ、敏子は・・・高校の中間試験の成績が悪かったので非常に機嫌が悪い。仁美は・・・ちょっとマズイよなあ。厚子は・・・絶対に連絡してはいけない。しばらく冷却期間が必要だ・・・う~ん、そうそう、恭子だ、恭子。
恭子の家は、ぼくの家のすぐ近くだ。国道を渡って、信号を4つ、東海道線など十数本が走る国鉄の路線、その上の歩道橋を渡り、杉山神社の横を通って、坂道をのぼる。そこに小さな一軒家が建っている。それが恭子の家だ。
ぼくは電話を掛けた。恭子が出る。「明彦だけど、恭子、今日、暇?」
「暇だけど・・・絵を描いていたの」
「油?」
「ううん、エナメル、課題なの」
恭子は美大に通っている。専門は工業デザインを専攻したい、といっているが、まだ、専攻を決めるまで先だ。その前に、石膏デッサンとか、クロッキー、水彩、油彩、いろいろなことを習得しないといけない。
エナメルペイントは、すぐ乾いてしまう。課題終わったのかな?
「まだ、途中なの?」
「飽きてきたとこ・・・」
「じゃ、映画でも見に行かないか?」
「うん、いいわよ」
「映画を見て、食事をして、そうそう、恭子だって酒をもう飲めるだろ?」
「明彦、まだ19才よ、19才」
「我が妹は18才からバーに連れて行ったけどね・・・」
「明彦の家とわたしんちじゃ違うわよ。そりゃあ、大学の飲み会には出るけど・・・」
「お母さんにぼくから許可をもらおうか?」
「う~ん、それなら大丈夫かなあ?どこに飲みに行くの?」
「中華街のコペンハーゲンっていうカウンターバー。お母さんに電話代われる?」
「代われるけど・・・」
「じゃあ、代わってよ」と電話を代わってもらう。
「あ、もしもし、お母さん?明彦です。この前はごちそうになりました・・・ええ、ええ・・・それでね、今日、恭子さんをデートに誘ったんですが・・・映画をね、それで食事して、その後、お酒を少し飲んじゃダメでしょうか?え?居酒屋?違いますよ。コペンハーゲンっていう、ほら、大桟橋の近くにあるスカンディアというデンマークレストランがあるでしょ?そこのオーナーが中華街にカウンターバーを持っていて、それがコペンハーゲン。オーナーは年配の女性なんですが、関内のビジネスマンがよく行くところです。オーナーとは知り合いです。静かで落ち着いた店です。デンマーク料理のおつまみも出すんですよ。今度お母さんも一緒に行きませんか?え?よろしいですか?ありがとうございます。11時前には家にお送りします。え?・・・ハイ・・・では、恭子さんに代わっていただけますか?じゃあ」
「というわけで、オッケーだよ。夜の11時までオッケー」
「な、なんで?なんで、そんなに簡単にオッケーになっちゃうの?」
「さあてね、キミが信用あるからじゃないの?」
「変なの、じゃ、何時に?」
「昼過ぎに迎えに行くよ、2時頃」
「わかったわ」
ぼくは傘をさして、1時35分に家を出た。トボトボ歩いて、恭子の家へ。
「あがる?」
「ううん、いいよ、行こうよ」
「じゃあ、お母さんにご挨拶だけして、それですぐ行こうよ」と、彼女のお母さんが玄関先に出てきたので、「行ってきます。午後11時にはお返し致します。それでは」と家を出た。
道すがら、どの映画がいいかきく。
「えっとね、ロードショーじゃないけど、ロイ・シャイダーの『オール・ザット・ジャズ』と、ダスティン・ホフマンの『クレイマー、クレイマー』と、マーロン・ブランドの『地獄の黙示録』をやってる。『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』もやってたな?」
「わ!寅さん!」
「ウソ?!まさか、寅さん、みたいの?」
「ウソ!アハハ・・・」と彼女が笑う。「『オール・ザット・ジャズ』と『地獄の黙示録』じゃ憂鬱になっちゃうから、ここは、『クレイマー、クレイマー』といいたいところなんだけど、ダメ?見た?」
「見てない、だから、『クレイマー、クレイマー』でいいよ」
ぼくらは京急に乗って、横浜で乗り換えて関内で降りた。馬車道の「横浜東宝会館」に行く。まだクリスマスのロードショーには早い。封切りから日がたっているので、がら空きだった。
「すいてるじゃん?」
「貸し切りね」
「真ん中で見よう」
映画を見終わって、恭子は、「あんまりハッピーじゃないじゃない?あれじゃあ、メリル・ストリーブがちょっと可哀想というか、普通、母親の側で子供を引き取るでしょ?離婚の時は?」と口をとがらせて文句をいう。
「う~ん、離婚したシングルの父親の映画としてみて、離婚を継起にその父親が親としてどう成長するか、という視点でみればいいんじゃないの?」
「でもなあ、何か割り切れないんだけどなあ。あれじゃあ、自立したメリル・ストリーブが悪いような印象も受けると思うんだけどなあ」とブツブツいう。
「ねえねえ、もしも、明彦が私と結婚したとして、私が自立した生活をしたいといったとして、明彦はどうする?」
「あれ?ぼくと結婚してくれるの?」
「『結婚したとして』って、言っているでしょうに?」
「なんだ、仮定の話か?ガッカリした・・・」
「本当にガッカリしてくれているの?」
「え?いや、まだ結婚なんて考えられないよ」ぼくはちょっと考えて、「じゃあ、ぼくらが結婚したとして、恭子が収入とか地位が保証された職についたら、ぼくはどう思うかというと、それは大歓迎だな。だけど、2人の時間は少なくなるだろう。その時、お互いがどう譲歩するか、お互いのことを考えるか、じゃないか?」
「そう、わかりがいいのね。良すぎるのかもしれないわね」
「そうかなあ、でも、ぼくはそれが出来ると思うけどね」
二人で馬車道を歩きながら、結婚のことをいろいろ話した、すべて仮定の話として。馬車道から右に曲がって、大通りを突っ切って、地裁の前で渡る。日銀の横を通って、ビジネス街に出る。
「さあ、どこで食事する?」
「この前はどこだったかしら?」
「マックで昼飯、イタリアンで夕飯」
「あ!」と恭子。
「何?」
「この前、マックで、私が何でもいいわ、といったら、ビックマックを買ってきたわよね?それで、私の口が小さいのを知っていて、私が食べるのに苦労しているのを見て笑ってたでしょ?」とぼくをぶつ恭子。
「ああ、あれ。食べるのに20分かかったな」とぼく。
「ひどい人ねえ。。」
「まあ、ちょっとね・・・」
「それで、今日のディナーは何?」
「中華でもいかが?中華街まで歩けばおなかがすく。中華街の『老正興菜館』の板さんが飲み友達だから、そこに行こうか?中華どう?」
「どこの中華?」
「上海」
「カニ?」
「いいや、大ウナギのぶつ切りを揚げたの」
「いやだあ・・・」
「冗談だよ、冗談。上海料理は、あっさりしておいしいよ。個室をとってもらおう。料理は恭子が食べやすいように、小さく切ってもらうから」
「それならいいわ」
ぼくらは、老正興菜館の2階の個室で、板さんに「可愛い彼女を連れて、明彦、どうした?」とからかわれた。もちろん、商売人だから、ぼくの他の友人の話はなしだ。今度、ホリデイインのミリラフォーレに飲みに行ったら恩に着せられるだろうな。
「あら、明彦、おいしい!」と恭子。
「そうでしょ?ぼくの選定がよろしい」
「でも、板さんのお勧めそのままよね?」
「う~ん、そうともいえるな」
冬の日の入りは早い。まだ7時なのにもう外は真っ暗。
「で?」
「で?そうそう、中華街の裏にホリデイインがあるでしょ?その斜め横がコペンハーゲン。歩いて、恭子の足でも3分かな?」
「もう開いているの?」
「5時から開いているよ。そうそう、ヘニングさんという船員崩れの人が、バーテンじゃないし、料理を運ぶのでもなくて、いつもカウンターの隅で飲んでいる。5時には48本の紅い薔薇を飾っている。女性は注意した方がいい。ハイチェアを引いてくれて、坐る時、ハイチェアを腰の下に押して、ちょっとおしりを触るんだよ」
「ま!」
「悪気はないよ」
「あってたまるもんですか!」
今日の恭子の服装は、黒のVネックのセーター。下は白いシャツ。ブルーの巻きミニスカートで、黒のストッキング。短靴。トレンチコート。いつもの通り、化粧っけがない。ピンクの淡い口紅だけ。しかし、非常に可愛い。妖精のようだ。
コペンハーゲンに行くと、まだ時間が早いから、カウンターも埋まっていなかった。ヘニングさんは友人と話し込んでいて、ハイチェアを恭子のために引いてくれなかった。
「つまんないの。ヘニングさん、おしりを触ってくれないわ」
「おいおい、そういうことをキミみたいな子が期待していいのかね?」
「ま!来年、20才よ!」
「ちょ、ちょっとぉ、あんまりそういうことを公言しないの、酒場では・・・」
「あ!ああ、エヘヘ・・・」
そこへ、おばさんが(コペンのバーテンダーはみんな女性なのだ)、「明彦、いらっしゃい。何にする?・・・あら?可愛い子連れなのね。おいおい」と言う。「須賀さん、彼女成人だよ、アラレちゃんだけど・・・」「ま、いいでしょ、で何する?」
「恭子、何にする?わからないか?」
「わからないわよ、カクテル?」
「そうだね、カロアミルク?」
「それ、何?」
「コーヒーのリキュールのミルク割り。コーヒー牛乳だな」
「やだよぉ、そんなの。どうせなら、お酒らしいお酒が飲みたい!」
「う~ん、じゃあ、ジンライム?ジンのライムジュース割り?」
「そのお酒でよろしいの?私酔っぱらわない?」
「薄く作ってもらおう」
「でも、酔っぱらってみたい気もする・・・」
「お母さんにぼくが怒られるだろ?ま、ちょっと飲んでみればいい、須賀さん、彼女にジンライム。普通にシングルのジン。氷を多めで。ぼくは、ジントニック。両方ともタンカリーで」とぼくは注文した。
ああ、その後のことを考えたら、あまり飲ませるんじゃなかった、と後で多少後悔したけど。
「ねえ、このジンライム、すごくおいしい」と恭子。
「軽いからそう思うけど、チビチビ飲んだ方がいいよ」とぼく。
「でも、もう水よ、水・・・もう一杯、飲んじゃダメ?」
「いいですよ、飲めるのなら。須賀さん、同じのをください、ぼくはバランタイン12年ダブルで」
須賀さんはくわえタバコで、タンカレーをメジャーもせずに注ぎ、ライムジュースをいつものぼくのよりも多めに足す。だいたい、ぼくのジンはダブルで、彼女のはシングルだ。ちょっと首をかしげて、おまけだ!というようにジンをまたつぐ。乾いたタオルでさっとグラスを拭いて、「ハイ、おまたせ」と恭子の前に置く。ぼくのウィスキーもぽんと置く。トリプルまではいかないけれど、ダブルよりはかなり多い。
「バーって、普通、こういうところなの?バーテンさんがみんな女性だなんて」
「この店は特別。中華街には『ケーブルカー』なんて店があるけど、そこは恭子が想像しているような、蝶ネクタイをしめた男性のバーテンさんがいます」
「ふ~ん、そう」と恭子はいって、ちょっと考えてから、「明彦はよく来るの?」ときく。「まあね、金と暇が有れば来るよ」とぼく。
恭子がジンライムを舐めながら、「一人で来るの?誰かと来るの?」ときく。
ぼくは頭の中で想定問答集を引きながら「たいがい、一人。あと、ここで友達と飲んで、ホリデイインのミリラフォーレに行く、という場合もある」と答える。
「ミリラフォーレって?」
「ホリデイインの12階にある、8人も入れば一杯になるバーだよ。高校の時から行っているんだ。バーテンの吉岡さんと知り合いなんだよ」
「明彦は高校の時からホテルのバーに行ってたの?」
「だって、ぼくの中学高校はこの山向こうだって知っているじゃないか?」
「それって、理由になると思う?」
「・・・思わないな」
想定問答集って、女性との心理の駆け引きの仕方だ。ある質問を女性がする。それが、その時の彼女と自分との関係を気にしている場合、イエスかノー、具体的な何かで答えてはいけない。できるだけ、質問を拡散させるように、別の目的語を挿入して(この場合、ミリラフォーレ)、彼女の集中心と疑問を分散させなければいけない、と書いてあるのだ。え?どこに売っているのかって?ボクの経験則だよ。頭の中にある。
「妹も連れてきたんでしょ?18才の時に?なんで、去年、恭子も連れてきてくれなかったの?」
「キミがお酒を飲めるとも好きだとも思ってなかったからだよ」
「損した気分。それに、それって、私をお子ちゃまだと思ってたからなのね?ね?そうでしょ?」
「恭子は大学でお酒を飲むの?コンパなんかで?」(これだって、想定問答集に従っている答えだ。質問に対しては質問で返す)
「コンパには参加するけれど、居酒屋でしょ?それで、焼酎とか飲まされて気持ち悪くなっちゃって」
「ほら、好きじゃなかったじゃないか?」
「それは居酒屋のお酒でしょ?こことは違う。同席する人だって、同級生だから。明彦と一緒とは違う」
「同じだよ、ぼくだって大学生なんだからね」
「同じじゃないわよ。飲むとか、楽しむとかもあるけれど、その後どうしようか考えているのがバレバレよ」
「おいおい、妖精のキミでもそういう下卑た人間根性がわかるの?」
「何が妖精よ、もちろんわかるわよ」
「あのね、ぼくなんて、その下卑た人間根性そのものなんだけどね」
「ウソ!」
「ホント!」
「じゃあ、この後、どうしようなんて考えるの?」
「考えない、お母さんに約束したから」
「ほらね。じゃあ・・・その下卑た人間根性は他の女の子に発揮して、恭子には発揮してくれないってこと?」
ぼくは目を回して考えた。これはどういう質問かと。
「答えてくれないってことは、ズバリ、その通り、ということ?」
「違うよ(ウソだなあ)、その質問ってさ、恭子に対して、ぼくが下卑た人間根性を発揮して欲しい、という願望なのか?どうなのか?ということを考えてました」
「え?・・・えっとね、あのね、そうね・・・」と恭子はぼくに顔を近づけて、ヒソヒソときく。「それって、男の子って何をしたいって思うの?」
ぼくもあわせて、ヒソヒソと「物には順序という物がある。だから、女の子が考えているようなイヤらしい結末まで、男の子は考えない。女の子は結末まで考えるけど、男の子は、まあ、最初からそれはないだろう、って考える。だから、『それ』の最初はキスするにはどうするか、ってことしかまず考えないんだよ。まさか、恭子は『イヤらしい結末』まで想像したんじゃないだろうね?」彼女は下を向いていった。
「した。想像しちゃったの」
ちょっとぼくは頭が痛くなってきた。彼女みたいな妖精のような女の子でもそういうことを考えるんだろうか?
「考えすぎだよ。男の子はキスのことくらいしか考えていないよ(ウソだ)」とぼく。
「ふ~ん」と彼女。「あのね、恭子、キスしたことがないの」とボソッと言う。
こういう独り言に対する想定問答集はなかったような気がするな・・・
「恭子はキスしたいの?」
「したいのかどうか、なんだかわからないけど・・・明彦の質問、根本的におかしい。だって、キスするには相手が必要で、その相手とキスしたいの?したくないの?というのならわかる。でも、なんだか抽象的に『恭子はキスしたいの?』なんて質問、ナンセンスよ。『恭子は(だれだれと)キスしたいの?』という『だれだれと』が抜けてる!」
「ぼくにその『だれだれ』が特定できるとは思えないよ」
「推測もできない?」
「いつか、そっと教えてくれないかな?」
「・・・わかった・・・」とまた彼女はジンライムをチビチビ飲んでいた。急に顔をあげると、「ねえねえ、明彦、明彦の飲んでいるの飲ませてくれない?」と明るい声で言う。
「これ、ウィスキーのオンザロックだよ」
「ちょっと飲むだけでいいから・・・」
「うう、まあ、飲みたいなら・・・」
ぼくのグラスを両手でもって、少し傾けて口に近づける。
「あら!おいしいじゃん!」
「やれやれ、恭子、焼酎飲んで気持ち悪くなったんだろ?」
「だって、これおいしいもん。焼酎と全然違うもん」
「しょうがないなあ」
ぼくが時計を見ると、「まだ、早いでしょ?11時前でしょ?」と文句を言う。
「まだ9時半だけどね」
「もう一軒行きたい!」
「まだ行くの?」
「明彦のいってたケーブルカーか、ミリラフォーレに行きたい!ちょっと遅れてもお母さん、許すと思う」
「わかった、わかりました、ケーブルカーに行ってみよう」
お勘定を須賀さんにしてもらって、ぼくらは加賀町署の方に向かって歩き出した。
店にはいると恭子が「うわぁ~、細長いバーねえ。コペンよりも長い!」と感心する。
店内はコペンよりもずっと明るい。「お酒、いろいろあるでしょ」とぼく。カウンターの真ん中に坐る。客は5分の入りだ。
「さっき明彦が飲んでいたのが飲みたい」と恭子がいう。
「ええっと、さっきぼくが飲んでいたのよりももっとおいしいのを頼もう」とぼくはバーテンさんに「バランタインの17年、シングルとダブル、オンザロックでいただけますか?」と注文した。
「何が違うの?」と恭子。
「さっきのは12年。こんどのやつは17年。5年だけ年上のウィスキーだよ」とぼく。
チビッと飲んだ恭子は「あら?!もっとおいしいじゃん?」という。
「おいおい、酒飲みになったら、お母さんに怒られるのはぼくだよ」という。
恭子の学校の話とか、友達の近況などを話していたら10時半になってしまった。
「恭子、タイムオーバー、帰ろう」
「つまんないの」
「タクシーで帰ろう、土曜日だから、第二京浜で行けば30分でつくだろう、20分くらいは遅れるかな?」
「律儀なのね」
「お母さんとの約束だものね」
タクシーを店の前でつかまえて行き先をいう。第二京浜を通って、岸谷でおりた。そこから商店街を通って家までの道順を運転手に説明していたら、「明彦、ちょっと歩こうよ、歩きたいよ」と恭子がいう。「雨降っているんだけど、いいの?」「いい、歩きたい」という。
タクシーの支払いをして、恭子とトボトボと傘を差しながら歩き出した。恭子と腕を組むとちょっと大変だ。彼女がぶら下がるようになってしまう。雨も降っているし、肩を抱いて歩く。
坂道を上って、あと家まで数分という時、恭子が急に立ち止まった。
「あれさ、『だれだれ』って、明彦のこと」ぼくは急に言われて意味がわからなかった。え?だれだれ?ぼくが何か・・・
「あの『いつか、そっと』って今なんだね?」
「そうよ、今よ」
「すると、ぼくは質問しないといけない。恭子はぼくとキスしたいの?」
「うん、したい」
「じゃあ、今?」なにもいわずに恭子はうなずく。
傘を差しながら、キスするのは楽じゃないんだ。だけど、ぼくにキスを教えてくれた女(ひと)は、明彦、キスはしっかりと相手を抱きしめてするもの。小鳥のついばみみたいなキスは心がこもっていないわよ、と教えてくれた。ぼくは、しっかりと忠実に恭子を抱きしめてキスをした。
ぼくらのキスは、レモンの味なんかしなかった。バランタイン17年の味がした。
キスが終わったあと、送っていこうと思ったぼくに「こういうとき、どんな顔をして明彦と一緒に家に帰れるかわからないの。ここでいいから。お母さんには、家の前まで送ってもらって、遅いから帰ってもらったっていうから。キス、ありがと。電話してね。きっとよ」とさっさといって、家の方に歩いていった。
ぼくは、年末も年始も恭子に電話して、何度も会ったけど、キスの話は彼女もぼくもしなかった。
アイーシャとアキヒコ
メグミとアキヒコ
A piece of rum raisin - 単品集
ヰタ・セクスアリス(Ⅰ)雅子 総集編1
ヰタ・セクスアリス(Ⅰ)雅子 総集編2
ヰタ・セクスアリス(Ⅰ)雅子 総集編3
挿入話『第7話 絵美と洋子、1983年1月15日/1983年2月12日』
登場人物
宮部明彦 :理系大学物理学科の2年生、美術部
小森雅子 :理系大学化学科の3年生、美術部。京都出身、実家は和紙問屋
田中美佐子:外資系サラリーマンの妻。哲学科出身
加藤恵美 :明彦の大学の近くの文系学生、大学2年生、心理学科専攻
杉田真理子:明彦の大学の近くの文系学生、大学2年生、哲学専攻
森絵美 :文系大学心理学科の2年生
島津洋子 :新潟出身の弁護士
シリーズ「A piece of rum raisin - 第1ユニバース」
第1話 メグミの覚醒1、1978年5月4日(火)、飯田橋
第2話 メグミの覚醒2、1978年5月5日(水)
第3話 メグミの覚醒3、1978年5月7日~1978年12月23日
第4話 洋子の不覚醒1、1978年12月24日、25日
第5話 絵美の覚醒1、1979年2月17日(土)
第6話 洋子の覚醒2、1979年6月13日(水)
第7話 スーパー・スターフィッシュ・プライム計画
第8話 第二ユニバース
第9話 絵美の殺害1、第2ユニバース
第10話 絵美の殺害2、第2ユニバース
第11話 絵美の殺害3、第2ユニバース
シリーズ「フランク・ロイドのヰタ・セクスアリス(Ⅱ)-第4ユニバース
第一話 清美 Ⅰ、1978年2月24日(金)
第一話 清美 Ⅱ、"1978年2月24日(金)1978年2月27日(月)
第二話 メグミ Ⅰ、1978年5月4日(火)
第三話 メグミ Ⅱ、1978年10月25日(水)
第四話 メグミ Ⅲ、1978年10月27日(金)
第五話 真理子、1978年12月5日(火)
第六話 洋子 Ⅰ、1978年12月24日(土)
●クリスマスイブのホテル・バー
●女性弁護士
第七話 絵美 Ⅰ、1979年2月17日(土)
●森絵美の家
●御茶ノ水、明治大学
●明大の講堂
●山の上ホテル
第八話 絵美 Ⅱ、1979年2月21日(水)
第九話 絵美 Ⅲ、1979年2月22日(木)
第十話 絵美 Ⅳ、1979年3月19日(月)1979年3月25日(日)
第十一話 洋子 Ⅱ、1979年6月13日(水)
メグミちゃんの「ガンマ線バースト」の解説
マルチバース、記憶転移、陽電子、ガンマ線バースト
シリーズ「雨の日の美術館」
フランク・ロイドのブログ
フランク・ロイド、pixivホーム
シリーズ「アニータ少尉のオキナワ作戦」
シリーズ「エレーナ少佐のサドガシマ作戦」
A piece of rum raisin - 第3ユニバース
シリーズ「フランク・ロイドのヰタ・セクスアリス-雅子編」
フランク・ロイドの随筆 Essay、バックデータ
弥呼と邪馬臺國、前史(BC19,000~BC.4C)
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