フランク・ロイドのヰタ・セクスアリス(Ⅱ)
フランク・ロイドのヰタ・セクスアリス(Ⅱ)
第六話 洋子 Ⅰ
1978年12月24日(土)
●クリスマスイブのホテル・バー
●女性弁護士
第十一話 洋子 Ⅱ
1979年6月13日(水)
●新橋第一ホテル
第7話 絵美と洋子
1983年1月15日/1983年2月12日
1978年12月24日(土)
●クリスマスイブのホテル・バー
どうも、あのあと、メグミとも真理子とも気まずくなったのは仕方がない。そりゃあそうだ。しばらく女性とは距離を置こうと思った。
さて、ぼくはかなり前から新橋第一ホテルでアルバイトをしていた。しかし、このバイト、これはかなりキツかった。朝、大学に行き、夕方、新橋へ。だいたい、午後5~6時頃に新橋第一ホテルに着く。
タイムレコーダーを打ち込んで、従業員食堂で早めの夕食をとる。午後6時に12階のバーに行く。バーは昼間も開いているので、昼間出庫してしまった酒、ソフトドリンク、つまみ、軽食用の食材の在庫を確認する。不足するものを地階の倉庫に取りに行き、バーのパントリー内の倉庫に補充したり、バーの酒棚に並べたりする。客の目に触れるビン類は濡れ布巾、乾いた布巾でピカピカに磨く。バーカウンターの下にソフトドリンクを補充しておく。生ビールの樽の残量をみて、交換したり、樽を取りに行ったりする。
それらを午後7時前くらいに終わらせると、だんだん客が増えてくる。フロアに出て、注文を受ける。バーテンに注文を伝える。伝票を作ったり、書き加えたりする。1978年なのだから、すべて手書きだ。酒やカクテル、つまみを持っていき、伝票を客のテーブルの隅におく。
午後11時頃になると、だんだん客足が落ちてくる。その頃から、バーの閉店時間の午前1時を見込んで、たまった洗い物を少しずつこなしていく。パントリーも掃除し始める。午前1時にバーは閉店。その頃には、最後の客のテーブルの後片付けをしたり、あまり仕事は残っていない。床掃除は、早朝にホテルの清掃係が行う。
午前1時から1時間ほど、バーのスタッフで寝酒を呑む。スタッフは、正社員のバーテンダー2~3名とアルバイト2~3名だ。寝酒は、アルバイトが作ったりする。みんな飲むのはウイスキーのロックとか水割りだから簡単なものだ。その時、カクテルを試しに作らせてくれたりする。ステアの使い方とか、シェイカーの使い方をバーテンダーが教えてくれる。
みんな話すことは、土日の競馬や競輪の予想とか、世相の話とか。バーテンダーによるが、そこで客に見せる手品の練習をしたり、皮のダイス(サイコロ)カップでダイススタッキング(数個のダイスをカウンターに並べて、カップを振りながらダイスをカップの中に入れていき、ダイスを縦に積みあげる遊び)の練習をする人もいる。
午前2時頃にお開きとなり、バーテンダーと私たちバイトは仮眠室に行く。従業員階に仮眠室はあった。ホテルの客室と似たようなレイアウトになっていて、アルバイトの部屋は2段ベッドが設えてある。洗面所とシャワー室もある。午前2時なので、顔をさっと洗ったら寝てしまう。山手線の新橋駅の始発時間は午前5時頃。4時半にホテルを出て、駅に向かい始発に乗る。家に戻るのは6時少し前。それから午前中の大学の講義がない時は寝てしまう。9時からの講義がある場合には2時間ほど仮眠する。
ローテーションでたいがいが土日は休めるが、土日出勤の場合もあった。
12月1日から三週間もバイトしていると業務にはだいたい慣れてきた。そして、クリスマスイブ。大学生にとっては、クリスマスは特別な日。サービス業にとってはかき入れ時。ぼくにとっても特別な日なんだけど、バイトは休めない。
バーのチーフの吉田さんが、「明彦、クリスマスイブは絶対に休むなよ、終わったらロイヤル・ハウスホールドを際限なく飲ませてやる」と言う。ロイヤル・ハウスホールド(Royal Household)、英国王室御用達のスコッチの絶品。バランタイン30年よりもさらにさらに洗練された味。バーのアルバイトは普通飲ませて貰えない。とりあえず「う~ん、え~、まあ、いいですよ」とぼくは吉田さんに答えた。
ということで、24日午後5時に出勤。いつものごとく、社員用のレストランで夕食を取る。ホテルの社食だからこれがおいしい。クリスマス特別メニューで、ローストビーフ、ヨークシャープディングなどディッケンズの小説で出てくる料理がいっぱいで、楽しめた。
ホテルのバーは見かけよりもずっと忙しい。アルバイトだって、カウンターの中で酒を作ることもあれば(正社員のバーテンダーが休憩とか食事の時とか)、ボーイ役でバーの中を歩き回る。バーの後ろの隠れたパントリーで、カットオレンジやメロン、牛肉のタタキを作っていたり(カットと飾り付けだけだけどね)、キッチンに素材を取りに行ったり、グラスを洗ったり。
このグラスを洗う、というのが重要だ。洗剤をいっぱい使ってゴシゴシ磨けばいい、などというものではない。
まず、シンクにぬるま湯を満たす。洗剤をほんのちょっと入れる。そして、数十個のクリスタルグラスを種類毎に漬ける。それから、スポンジに適度に洗剤をつけ、丁寧にグラスの底まで洗う。洗ったグラスは別のシンクで洗剤をすすぎ、さかさにして並べる。普通の家庭ならここまでだろう。
ところが、いくら丁寧に洗っても、クリスタルグラスには油脂分が付着している。人間の手の脂とかだ。乾くと曇るんだ。
そこで、次に、シンクに熱湯を満たす。熱湯はホテルのセントラルの給湯システムから80℃の高温水が蛇口をひねれば出てくる。そこにひとつひとつグラスを浸して、熱湯と同じ温度になるまで待つ。同じ温度になったら、乾いたタオルで親指をグラスの内側に入れて、外側内側をキュキュッと磨く。そこまでしないとクリスタルグラスの表面の曇りは取り除けない。もちろん、場末の街場のバーでこんなことはしない。
バーのかき入れ時は8時から11時頃までだ。今日は普段の客の2倍以上が訪れる。注文を訊く、バーテンに伝える、バーカウンターの横のパントリーでメロンをカットしハムを盛りつける、飲み物と食い物を客に届ける。
シャンパンを注文する客、シャンパンクーラーを準備する、シャンパンをあける、ワイン、カクテル、時間が進むに連れて、強い酒が多くなる。ジャック・ダニエル、オン・ザ・ロックスをダブルでとか、マティニをシェイクしないで軽くステアして、ウィスキーグラスでオン・ザ・ロックスにして頂戴、なんて客もいる。4シートの席で、おのおの面倒なカクテルを頼むグループもいる。
こっちはもう慣れた。いくらカスタマイズした注文でもすらすら復誦できる。「・・・と、以上のご注文でよろしいですね?」という私。間違いがないのに驚く客。毎日やっているんだよ、こっちは。客のカスタマイズドカクテルなんて、たかが知れたもの。
10時半を過ぎた。吉田さんが、「明彦、俺、飯食ってくるから、カウンターやってよ」と言う。私は年上でフーテンのアマネさん(本名をホテルの会計係以外誰も知らないし、アマネの由来も誰も知らない、私と同じアルバイトだ)に、「アマネさん、カウンターやってくるからフロアはお願いします」とフロアを預けて、カウンターに入った。
カウンターだって忙しい。生ビールの樽を入れ替えたり、氷を割ったり、グラスを磨いたり、カウンターを拭く、客が何とかビルはどこかね?という問いに答える、はさみある?なんてプレゼントを開くので訊く客、カクテルを作る、ウィスキーの水割りを作る、客の雑談に答える、ミリオンダイスにつき合う、シンクの洗剤をそそぐ、自分の蝶ネクタイを直す、外人の客に英語で答える、泣きべそをかいている女性客にティッシュを渡す・・・、やれやれ、無限に仕事は存在する。だから、それなりにアルバイト代はいいわけだ。
●女性弁護士
11時になって、急に潮が引くように客がいなくなっていく。外の銀座の風景が美しい。第1次オイルショックの時はネオンも消えて寂しかったが、今回のオイルショックでは、あまりネオン自粛の声も聞かれない。
カウンターには客が一人もいなくなった。フロアのアマネさんも暇そうにしている。
階段を降りてL字型に座り心地の良さそうな樫の木づくりの10席ほどのカウンターが有り、そこから建物の端までは2席から4席のテーブル席が設けられている。
アマネさんとフロアを見てよそ見していたぼくに、急に「ピンクジンを頂戴、タンカリー、ダブルで」とカウンターから注文が来た。いつの間にきたのか、チェアを引く音が聞こえなかった。「いらっしゃいませ。ピンクジン、タンカリーベースでダブルですね」とぼくはカウンターに目を戻して復唱した。
女性だった。ビジネススーツを着ている。下がパンツなのかスカートなのか、カウンターからは見えない。非常に美しい。ネイビーブルーのビジネススーツはオーソドックスだが、シャツは白のフリルがついているかなり高価そうな代物。プラチナの揃いのピアスとネックレス。四角いダイアモンドのペンダント。カウンターにおいた手には結婚指輪はない。バーテンは瞬時に客層を見るもんだ、と吉田さんが言っていた。
ミキシンググラスにロックアイスを入れ、タンカリーのダブルを注ぐ。ちゃんとメジャーグラスで計って注いでから、ちょっとハーフをグラスから足し増す。このおまけが客には重要だ。売り上げが上がる。
中指と薬指を折り、親指と人差し指、小指でミキシングスプーンを支えて、軽くステアする。アンゴスチュラ・ビターズを数滴。ミントの葉を2枚。ピンクジンの出来上がり。彼女の前にコースターをだし、グラスをそっとおく。我ながら流れるような作業だ。
「おいしいわ」と彼女。ぼくもつられてニコッと笑う。
「クリスマスなのに大変ね?」と彼女がぼくに言う。「忙しいですが、イブにバーが閉まっていたらお客様がお困りになります」と私。
「お若そうね?」
「え~、大学生なんです」
「あら?ここに勤めているのじゃないの?」
「夜だけですよ」ぼくはグラスを磨きながら答える。
「いいわねえ、イブなのにやることがあって・・・」と彼女。「イブなのに、ホテルのバーでやることもなくピンクジンを一人飲んでいる寂しい女もいるのよ。今日も大変だった、クライアントと打ち合わせして、その後、食事。2次会も適当につき合って、ホテルに帰ってきたの。金沢から出てきたから知り合いもいないのね、あ~あ・・・うん、ゴメンごめん、愚痴が思わずでちゃったわね」と彼女はニコッとぼくに微笑みグラスを掲げて言った。素敵な笑顔だ。
「それは大変だったですね」とぼくはグラスを拭きながら言った。
「キミ、仕事が終わった後はどうするの?終電もないでしょ?バーが閉まるのは1時よね?」と彼女が訊く。
「ホテルの従業員階の一室に二段ベッドがおいてあって、バーの従業員は始発まで仮眠できるようになっているんですよ」とぼく。
「へぇ、そぉ?」と彼女が言う。ちょっと考えて、多少躊躇しながら彼女が小声で言った。「私ね、部屋が9階なの。903。ほら、この鍵」と真鍮のキーホルダーとキーを私に見せる。「キミ、その仮眠室、抜け出せるの?」と彼女。「え~、誰がいつ出て行った、なんて、同室のバーのバイト連中は気にしませんから。昼間まで寝ているフーテンもいます。ここを寝場所にしているようなものですよ。寝た後は誰も起きません」とぼく。
「そぉ、だったら、私の部屋にこられる?寝酒をつき合うっていうのはどう?」と彼女。
ホテルの従業員はそういうことをしてはいけない、という理性の声も聞こえる。しかし、「問題ありませんよ、2時頃でもよろしいですか?」と平然と答えるぼく。相手によるのだ。彼女だったら・・・。
「2時ね、シャンパンを注文しておくわ・・・あなたが届けるんじゃないでしょうね?」
「あのフロアに突っ立っている男が届けますよ」
「そう、じゃあ、ピンクジンは部屋につけておいてね。それから、クリュッグのノンビンテージを冷やして部屋に持ってくるように手配してね。キミ、このお酒でよろしい?」と彼女。
「了解致しました」とぼくは伝票を書き、彼女に部屋番号と氏名、サインを求めた。伝票を見た。名前、島津洋子さんというんだ。
サラサラとサインすると、彼女は「じゃあ、あとで。メリークリスマス!」と小さく言い、さっさと立ち上がって、左手のエレベーターの方に消えていった。後ろ姿を見送る私。スカートだった。シームの入った黒のストッキング。やれやれ。
「アマネさん?」とフロアにいるアマネさんに言う。
「なんだい?」
「今のお客さん、903号室、部屋にクリュッグのノンビンテージを持ってきて欲しいそうですよ。グラスは2つ」とぼく。そう、グラスは2つ必要だろう?
「わかった、フロアの向こうにいたのでよく見えなかったが、美人だったな」
「部屋に行ったらゆっくり鑑賞できるでしょう?」
「はは、じゃあ、持っていくから、フロアも見てくれよ」とアマネさんは言って、パントリーからワインクーラーを取り、ワイン庫からシャンパンを持ってくると、ぼくが用意した伝票を持って、エレベーターの方に向かった。入れ違いにバーテンダーが帰ってきた。
「ハイ、ただいま。もう、客も引けたな?」と吉田さん。「これから泥酔状態の一団がなだれ込んでこないとも限りませんよ」とぼく。案の定、泥酔状態の5人組がなだれ込んできたのは12時だった・・・
「2時か・・・」
今晩、仮眠室はアマネさんとぼくだけだ。アマネさんは、いつもバーが閉まってからのバー仲間の一杯を、安ウィスキーを半パイントほども飲んで寝てしまう。寝たら絶対に起きない。この前など、情けないことに寝小便までしていた。この人の人生はなんなのだろうか?
「ま、いいや、メリークリスマス」とぼくは誰にともなく言った。
泥酔状態の5人組は適当に酒を出して、1時前には丁重にお引き取り願った。「お客様、当バーは午前1時までの営業となります。そろそろ閉店の時間なのですが・・・」とぼく。へべれけの5人組は素直に勘定をして出て行った。バーの入り口を閉ざす。5人組以外は客が居なかったので、洗い物も片づけも終わっていた。5人組のグラスを洗うともうやることもない。
「全部終わりましたが・・・」と吉田さんに言うぼく。「お!終わったか、じゃあ、約束通り、ロイヤル・ハウスホールドを飲めよ」と言う。「ありがとうございます」とロイヤル・ハウスホールドの瓶を棚から取って、グラスに注ぐ。何も足さないで飲む。ノドを何の抵抗もなく落ちていく。素晴らしい。
「まあ、今日は忙しかったな。明日って、今日か、クリスマスだな。どうするんだ?」と彼が訊くので、「オフにさせてください、ちょっと約束があるので・・・」と答える。
「イブに仕事させたからな、女の子とでも約束があるんだろうな」「そうなんですよ・・・ああ、そうそう、部屋を取って頂けませんか?ダブルの部屋を」「なんだ?女の子と泊まるのか?贅沢なヤツだなあ、ホテルに部屋を取るなんて」とうらやましそうに言う。
1978年は、学生がシティーホテルに泊まるなんてことはまずなかった。たとえクリスマスイブだろうが、なんだろうが、そういう文化はまだ形成されていなかった。
「まあ、いいや、宮部の名前で取っておいてやるよ、特別料金だぞ、安くしておくから」と彼が言う。「ありがとうございます」と私。
アマネさんは、ウィスキーをストレートでガブガブ飲んでいた。カウンターの隅に坐って会話には参加しない。つくづく変わった人だ。
「さて、1時半じゃないか?お開きにするか?」と吉田さんが言った。「おい、アマネ、飲み過ぎたか?」とアマネさんにバーテンが訊く。「大丈夫ですよ」とアマネさんが答えるが、呂律が回っていない。最近酒にめっきり弱くなったようだ。「明彦、部屋まで一緒に連れて行ってくれ。それと寝小便をされちゃ困るからな、トイレをすませてから寝させてくれよ」と言われた。
ぼくはアマネさんの腕を肩に回して、従業員用エレベーターで従業員階まで降りた。ベッドにアマネさんを放り出すと、もう彼はグウグウ寝ている。「アマネさん、トイレに行かないと・・・」と揺り起こすがダメだった。しょうがない、制服のままだが、制服はいつもクリーニングされて一式予備が支給されるので、明日は予備を着ればいい。毛布を掛けて寝かしつける。
ぼくは、部屋に付属する小さなシャワールームで手早くシャワーを浴びて、私服に着替える。そっと部屋を抜け出し、客用エレベーターに乗った。2時5分。2時頃に、と言ったのでいいだろう。9階に上がる。
903号室は階の隅にある。そっとノックをする。ドアが静かにあけられた。「キミね?」と隙間から覗く彼女。「ちょっと待っていて。ドアチェーンを外すわ」ドアが閉まり中でガチャガチャやっている。「さ、入って」と彼女が言う。「おじゃまします」と小さな声で言うぼく。
ベッドは乱れていなかった。窓際のテーブルにアマネさんの届けたシャンパンクーラーがおいてあった。彼女はグレイのニットのミニドレスに着替えていた。ストッキングははいていない。素足だ。
「さ、坐って。寝酒をつき合ってくれてありがとう」と彼女は窓際のソファーを指差した。ソファーに座りながら「ご招待頂きありがとうございます」とぼく。彼女は壁に備え付けのデスクの椅子に腰を下ろした。
「キミ、制服じゃなくって私服だと確かに学生なのね」
「だって、学生ですから」
「トラッドが好きなのね」と彼女が言う。
チノパンツにボタンダウンのシャツ、フィッシャーマンズセーターをぼくは着ていた。靴はデッキシューズ。
「キミ、名前は?」
「宮部明彦といいます」
「じゃあ、明彦くんでいいわね?私は島津洋子。洋子と呼んでね」とウインクする。
「ちょっと飲んじゃった」と彼女。
「遅れてスミマセン、片づけがあった物ですから・・・」
「仕事ですものね、シャンパンをどうぞ。それとも強いお酒がいい?」
「いえ、シャンパンを頂きます」とぼくはシャンパンクーラーからボトルを取り上げ、タオルで結露した瓶の表面を拭ってグラスに注いだ。彼女のグラスにも残り少なかったので継ぎ足した。
クリュッグのノンビンテージを頼むなど彼女は趣味がいい。モエ・エ・シャンドンが日本人にはよく知られているが(ドンペリニョンはこの社で作っている)、クリュッグの味には負ける。ビンテージは、何年ものとか呼ばれる。その年のブドウからしか作られない。いわばシングルモルトのようなものだ。
ノンビンテージは、さまざまな年のワインをブレンドして作られる、シャンパンのブレンデッドウィスキーだ。個性はビンテージが強いが、まよらかな味ならノンビンテージだ。むろん、高価だ。明治屋なんかで買うと。1978年当時で3万円もする代物だった。ホテルのチャージがかかるので、いったいいくらになるのか?
「やっぱり、シャンパンはおいしいわ」と彼女が言う。
「クリュッグのノンビンテージはあまり出ません。ご存じの方が少ないので。外国の方がよく飲まれるんですよ」
「フランスにいた時、こればっかり飲んでいたわ」
「フランスにおられたんですか?」
「ちょっとね、はくつけで留学していたようなものよ」
「へぇ~、パリですか?」
「モンペリエよ、南フランスの大学。パリはね、好きじゃなかったわ」と彼女が言う。「法学を学んだのよ・・・ところで、ね、キミの専攻は何なの?どこの大学?」と彼女がぼくに訊く。
「飯田橋の大学です。物理科です」とぼく。
「物理?変わっているわね?」
「変わっていますかね?」
「だって、工学部とかならいっぱいいるけれど、物理学専攻という人にはじめてであったわ」
「そんなに希少価値がありますかね?」
「上野の動物園のパンダ並じゃないの?」
「それほど珍しいかなあ・・・」
「彼女いるの?」
「いませんよ」と答えた。あれ、メグミはぼくの彼女なのか?う~ん、雅子が京都に帰ってしまって以来、本当の彼女という存在はいないようだ。「イブにバイトしているくらいですから・・・」
「それはお気の毒」
「不躾ですが、あなたはどうなんですか?」
「いないわよ、もう適齢期もすぎちゃったわ」なんてたわいない話をしばらくした。
1978年当時は、晩婚という現象もあまりなく、26才でも適齢期を過ぎた、という感覚だった。
急に真顔で「ねえ、何時までいられるの?」と彼女が訊く。
「このシャンパンを持ってきた男が起きるか、朝の始発電車の5時頃ですね」
「その人、早起き?」
「たいがい、昼近くまで寝ていますよ」
「じゃあ、5時頃まであと3時間ちょっとあるけれど、私につき合う?」
「いいですよ、明日は予定はありませんから」とぼくが言う。
彼女は、椅子から立ち上がるとベッドに腰をおろした。
「キミ、何をしたい?」と彼女が言う。ぼくは洋子の脚を見ていた。バーにいる時は、彼女の席はバーカウンター。脚がよく見えなかった。「ねえ、キミ、私の脚を見ているでしょ?」
「え?ああ、きれいな脚だなあ、って、洋子さん・・・」
「そぉかしら?きれいかな・・・でも、褒められてうれしい・・・じゃあさ、試しに私のスネを触ってみて」と刺激的なことを言う。
「え?」
「だから、そんな離れたソファーじゃなくて」とバンバンと自分の座っているベッドの左横を叩く。「ここ、ここに座って」
ぼくは、ソファーから立ち上がりベッドの彼女の左に座った。洋子さんは太腿を押し付けてくる。彼女のミニドレス越しに彼女の体温が伝わってくる。メグミにお仕置きをされそうだ。
彼女はぼくの手を持って、彼女のスネに押し付けた。「どう?」
「スベスベです」
「私は毛深いほうじゃないから、ムダ毛処理も簡単に済むのよ」
「へぇー」という会話になって、「キミ、女の子が毛深いか毛深くないか、どうやったら簡単に見分けられる?」などと質問する。
彼女が言うには「もみあげから顎、うなじにかけて産毛が多い女の子っているでしょ?そういう産毛が多い子は毛深いのよ」と持論を述べる。しかし、それが本当なのかどうか?調べないといけない。
「キミ、女性のあそこの毛だって、もみあげから類推できます、キッパリと言いきれます」とか言う。これも調べないといけない。でも、誰相手に?メグミにでも訊くのか?
「私、そんな産毛が多くないでしょ?毛深くないのよ。ホラ?」と長い髪をかきあげて、耳ともみあげを見せる。確かにそうだ。産毛はない。
「ね?今晩じゃないけど、今度じっくり私を確認してもいいわよ」とニヤッと笑って、彼女はシャンパンを飲み干した。
「さて、キミ、私と何をしたい?」と彼女が言う。
「ええっと・・・キスを・・・」
「キス?私と?」
「ハイ、洋子さんとキスしたいです」
「明彦くん、よく言った。いいわよ。私もキミとキスしたい」と洋子さんは唇を近づけてきた。
洋子さんはキスがとても上手だった。
1979年6月13日(水)
●新橋第一ホテル
今日はムシムシして雨が降っていた。梅雨時は嫌いだ。客が水に濡れたこうもり傘を傘立てに立てないで、席まで持って行く。床のカーペットはぐっしょり濡れる。バーがじめじめしてしまう。カーペットが湿った臭いをさせる。イヤだなあ。
バーはかなり混んでいて忙しかった。ぼくは、フロア係をやり注文を聞き回り、ワインクーラーを準備し、パントリーで、カットオレンジやメロン、牛肉のタタキを作ったり、キッチンに素材を取りに行ったり、グラスを洗う。バーテンダーが食事に出かけると、カウンターに入って酒を作った。
30才代後半のテレビドラマにでも出てきそうな綺麗な女性がカウンターで一人きりで飲んでいて、「ねえねえ、キミ、今晩、暇?どう?」と小声で聞く。真鍮のルームキーをぶら下げてカチャカチャと揺すった。「いえいえ、ナイトシフトでルームサービス係を今晩しないといけませんので・・・」と、波風を立てないようにウソをつく。ホテル規定でそういうことはしてはいけない。しかし、あからさまに言ってもいけないのだ。
チーフバーテンダーの吉田さんが、「いいか、明彦、そういうことを問われても、お客様の顔を立てて、波風立てないようにうまく処理するのがホテルマンだぞ」と言われている。ぼくはホテルマンではなく、単なるバイトなんだけど、ぼくだって波風立てたくないのでその言葉に従っている。ずっと。
女性は、「残念ねえ・・・」と口をとがらせて小声で言う。「ぼくも残念ですが、仕方ありませんね。どうですか?代わりと言ってはなんですが、バーからあなたにカクテルを差し上げます」と、カウンターに身を乗り出して小声で言って、カウンターテーブルに新しいコースターをしき、マンハッタンを彼女の前に置いた。「わあ、うれしい!」と、彼女はおいしそうに飲んだ。彼女はしばらく飲んで、勤務先(六本木のクラブだそうだ)の愚痴を言っていた。
六本木のクラブに勤めていて、花金の夜、バーで一人飲んでいて、新橋のホテルの部屋をリザーブしている、という状況は理解できない。そのリザーブしている部屋に誰が来るのだろうか?誰かが来るなら、なぜぼくを誘うのだろうか。大人の世界の話だ。大学生のぼくには理解できないことが山ほどあるのだろう。
愚痴にも飽きたのか、「また、ほかのところで飲もうかなっと。お勘定をお願いね?」とぼくに言った。「かしこまりました」とぼくは伝票を書いて彼女に渡す。「部屋に付けておいてね。部屋番号はここ」と、部屋番号を強調する。「了解いたしました」とぼくが言う。「残念ねえ。気が変わったら電話してね」と彼女は手をひらひらさせバーを出て行った。ぼくも残念ですよ、と心の中で思った。エレベーターホールからこっちを向いて彼女はぼくにバイバイしてから、エレベーターに乗り込んだ。やれやれ。
時間は11時半になっていた。だいぶ客が引いてくる。終電も間近だ。フロアの方はどうかな?とぼくは右手のテーブルフロアの方を見ていた。
急に「ピンクジンをいただける?タンカリー、ダブルで」とカウンターから注文が来た。いつの間にきたのか、チェアを引く音が聞こえなかった。「いらっしゃいませ。ピンクジン、タンカリーダブルですね」と復唱してカウンターの方を向いた。彼女がいた。
「久しぶりね?」と、彼女が微笑む。
「昨年のクリスマスイブ以来でしょうか?」とぼくは何食わぬ顔で言った。(第六話 洋子 Ⅰ)
「あら、覚えていてくれたのね?」と、彼女がニヤリとする。
「あのときも、ピンクジンをご注文なされましたね?」
「クリュッグもルームサービスでとったわ」
「ああ、そうでしたね」
「このホテルのルームサービスは気が利いているわ。私、気に入ったのよ」と、彼女はチェシャ猫のようにニタニタ笑った。
「お気に入り下さってありがとうございます」とぼくは答えた。
洋子さんだ。今日、彼女はラフな格好をしている。ブルーのボタンダウンのシャツ、ジーンズ、チルデンセーターを背中で羽織って、首の下で軽く結んでいる。
「梅雨時はイヤねえ。雨、嫌いだわ。ジメジメして気分が滅入っちゃうんだな。もっと滅入っちゃうことに、夜も遅いのに、また、ホテルのバーでピンクジンを一人飲んでいる寂しい女をやっているの」と、彼女は言って、小声で「ね?明彦くん?」とグラス越しにぼくを見て付け足した。
「え~、え~、今日はご出張で?金沢からでしたか?」とぼくが訊くと「そ、クライアントと打ち合わせ。いつもの通り。あれ?私が弁護士やっている話をした?」
「この前、お聞きしましたよ」
「あなたはしばらく見なかったわね?」
「常勤というわけではありませんので」とぼくは言った。
彼女にナッツの入った小鉢を出す。「早い時間で終わることもあるんですよ。このバーだけではなくて、宴会場なども担当しているものですから」
「私、普段は帝国ホテルに泊まるのよ。でも、クリスマスイブ以来、このホテルが気に入ってしまって、こっちも泊まるようにしたの。毎月出張しているけれど、冬が過ぎて春になって、夏になっちゃったわね」と言った。
「ね?明彦くん?」とまたぼくを見て付け足した。
「あの、その、今晩もシャンパンをご注文されるのですか?」
「どうしようかな?クリュッグあるの?ノンビンテージ?」
「ございますよ。ご注文されるのでしたら、冷やしておきましょうか?」
「そう、お願いしていいかしら?」
「承知いたしました」
ぼくはフロア係をやっているアマネさんにクリュッグを冷やしておいて下さいとお願いした。「え~、お客様、ルームナンバーは?」「903よ」また、903か。やれやれ。
しばらく洋子さんは飲んでいて、仕事の話などをしていた。愚痴じゃない。おもしろおかしく、刑事訴訟や民事訴訟、おかしな原告や被告の話などをして、ぼくは笑ってしまった。もちろん、弁護士規定に触れないように。彼女は話がとても上手だった。ピンクジンを2度お代わりした。
「12時45分か。部屋に戻ろうかな?お勘定はお部屋に。お願いね」
「承知いたしました」
「シャンパンも冷えたかな?クリュッグ、すぐ届けられるでしょ?」
「あのフロア係がお届けいたします」
「そ?一人寂しく寝酒を飲もうかな?2時頃まで・・・」
「2時頃まで、ですか?」
「そう、2時頃まで、ね?明彦くん?」
そういうと、また、ニヤッと笑って、ぼくにウィンクをして、彼女はスタスタと行ってしまった。ぼくは、アマネさんにお願いして、彼女の部屋にシャンパンを届けてもらった。
アマネさんは、「おい、明彦、あの女性、どこかで見たような気がするな?」というので、「去年の12月にアマネさんが同じクリュッグを部屋に届けたでしょう?」と言った。
「ああ、そうそう、思い出した。あの美人か、思い出したよ」と彼は言った。アマネさんは、ワインクーラーを取り、氷をドサドサいれて、冷蔵庫で冷やしていたシャンパンを持ってくると、ぼくが用意した伝票を持って、エレベーターの方に向かった。入れ違いに吉田さんが帰ってきた。
「ハイ、ただいま。もう、客も引けたな?」と吉田さんが言った。
「あと、テーブル席で1グループがおられるだけです」
「そうか、もうちょっとしたら伝票を持っていって」
「わかりました」
「アマネはどこに行った?」
「お客様の部屋にシャンパンを届けに行っています」
「あいつが帰ってきて、客が引き上げたら、一杯やるか?」
「洗い物は済んでいます。後はテーブル席のお客様の分だけです」
15分待って、ぼくはテーブル席の最後のお客さんに伝票を渡し、勘定を終えた。いつも通り、店が引けた後の一杯をやって、アマネさんはガブガブとウィスキーを飲んだ。ぼくは、カナディアンクラブを軽く飲んだ。
吉田さんが「さ、お開きだ、明彦、アマネをよろしく」と言った。ぼくはアマネさんを抱えて従業員階に行き、仮眠室でアマネさんを寝かしつけた。シャワーは浴びずに手早く着替えをした。部屋を抜け出し、従業員エレベーターに乗った。1時50分。9階に上がる。
903号室をそっとノックする。ドアが静かにあけられた。隙間から彼女がぼくを見た。「明彦くん、待ってね」ドアが一端しまり、チェーンをはずしている。ガチャガチャ。「さ、入って」と彼女が言う。何も言わずにぼくは部屋に入った。
この前と同じで、窓際のテーブルにアマネさんの届けたシャンパンクーラーがおいてあった。
「今晩は、あら?お早うかしら?今回はちょっと早かったわね?」
「やれやれ、洋子さん・・・」
「洋子でいいわ」
「じゃあ、洋子、ああいう禅問答はですね・・・」
「面白かったわね。明彦のとぼけて澄ました顔は可愛いわよ」
「意地が悪いんだから」
「ゲームよ、ゲーム」
「あのですね、ホテルには規定があって、ホテルの従業員はお客様と私的な関係を結んではいけないんですよ」
「あら?これはルームサービスと思っていたけれど?明彦は、こういうことをしないの?他の女性と?」
「しませんよ。洋子さんが最初で最後です」
「あら?なぜ?私みたいに誘ってくる女性っていないの?」
「今日もいましたよ。よくあることです。でも、それは波風を立てないように、丁重にお断りしています」
「あらあら?じゃあ、なぜ私とは?」
「え?なぜでしょうかね?洋子がイタズラっぽく言ったからかな?とてもキュートな大人の女性だと思いましたよ」
「答えになってないぞ?」
「うん、なぜかピンと来たんです」
「何がピンと来たのよ?」
「この女性は、ホテルの従業員を部屋に誘い入れたがる他の女性とは違うぞ、と」
「どう違うのよ?」
「洋子さん、知的だったから」
「そういうのがわかるの?」
「わかるんですよ。ちょ、ちょっと、ぼくばかり攻めますが、洋子だって、こんな誘いをよくするんですか?」
「あら、去年のイブが初めてよ。それで最初で最後。キミと同じ」
「じゃあ、なぜ?ぼくなんです?」
「明彦と同じ。ピンと来たのよ。この男の子は私と長い付き合いになるって」
「まさか?」
「じゃあ、試してみる?長い付き合いになるか、どうか?」
「まったく・・・」
「さ、シャンパンを開けてちょうだい。待っていたのよ」
「ハイハイ」
ぼくはシャンパンのメタルの包装を破った。ワイヤーを反時計回りに捻ってはずす。ゆっくりとコルクを押し上げ、少しずつひねり出す。小さな「ポン!」という音がしてコルクが外れる。パーティーじゃないのだから、コルクは飛ばさないのだ。部屋にノンビンテージのクリュッグの香りが満ちる。シャンペングラスにみたし、洋子に手渡す。
「アリガト」と、洋子が言う「さ、座って。乾杯しましょう」と、洋子は自分が座っているベッドの左横をパンパンと叩いて、グラスをあげた。ぼくは彼女の隣に座り「じゃあ、洋子の幸福を祈って」と彼女と乾杯した。
「私の幸福かぁ~」と、洋子が言った。
「え?」
「長年留学していて、日本の弁護士資格も取得して、三十路に近い女に幸福なんてくるのかしら?」
「来るでしょ?信じていれば幸福なんて、そのシャンパンの泡の数ほど降ってくるものですよ」
「ふ~ん、気の利いたことをいうこと。でも、現実問題として厳しいのよ、私」
「そうなんですか?」
「ま、いいわ、私の話は。そういえば、この前、明彦、私が彼女いるの?と訊いたら『いません』と答えたけど、あれ、ウソでしょ?」
「スミマセン、彼女、います・・・いえ、去年のクリスマスには彼女と呼べる女の子はいませんでした。今はいます」
「ふ~ん、売れちゃったのね。残念ね。で、キミには彼女がいて、6才年上の私と真夜中に二人ホテルの部屋に二人でいて、キミはどう感じているの?」
「素敵な女性と同じ部屋にいる、という感じしかしませんが?」
「この浮気者め!」
「違うんですよ、どうなんでしょう?肉体関係ってなんですか?ぼくたちはキスしかしていませんが、キスしたからといって、ぼくたちの関係が変わりますか?ぼくとぼくの彼女の関係が変わりますか?変わらないでしょうに?」
「キミは変わっているわね?男と女はね、セックスしたら、変わるのよ、お互いの関係が。お互いの感情が」
「そうかなあ。ぼくは彼女に自分の行動の話をします。ぼくと他の女の子の話もします。でも、ぼくたちの関係に変わりはありませんよ」
「キミも変わっているけれど、その彼女も変わっているわねえ。そう、じゃあ、たとえば、私と明彦が今晩セックスしたとしたら、その話もする?」
「これは微妙だなあ。つまり、この状態というのは、他人から見れば、ホテル従業員と宿泊客の情事にしか見えないでしょ?ぼくと洋子がいくら『ピンと来たから』と言っても」
「確かにそう。まったく、なぜ、私とあなたが初めて会ったのがホテルのバーなのかしら?他の場所で別のシチュエーションでなぜ会えなかったのかしら?癪だわね」
「仕方のない話でしょう。過去はテイクバックできませんから」
「そうね・・・そう、じゃあ、私の話は、明彦は彼女にはしないの?」
「それはわかりません。でも、たぶんするでしょうね」
「ふ~ん、そう?それで、私、今、『たとえば』と言ったけど、それが『たとえば』じゃないことになったら?」
「なにが?」
「鈍い!私と明彦がセックス、今晩しちゃうってことよ」
「洋子、したいの?」
「え?・・・」洋子はうつむいて考えている「ええ、したいわ」
「ぼくとでいいんですか?」
「私は明彦、あなたとしたいのよ。もう、これ以上言わせないでよ」
「ハイハイ、じゃあ、もう黙りましょう、お互いに」
ぼくは洋子の左の脇の下から右手を背中に回して、洋子の頭の後ろに手をやった。左手で洋子の右肩をそっとつかむ。ぼくの方に洋子の顔を向けさせ、軽く唇を重ねた。それから、洋子の唇を舌でなぞり、下唇を軽く噛んだ。洋子に舌を入れる。洋子がぼくの舌を吸う。ぼくたちは、お互い舌を出し入れして、長いキスをした。
「う~ん、まいったわね」と、洋子が言う。
「この前はここまででしたね?」とぼくが言った。
「それで?これからどうするの?」
「シャンパンを飲むんですよ。気を落ち着けるために。ぼくはドキドキしていますから」
「ウソばっかり」
「本当ですよ、ほら」と、洋子の手をぼくの左胸の心臓の上においた。「ね?」
「あら?本当だわ。私も」と、洋子はぼくの手を彼女の左の乳房の下においた。洋子の胸のぬくもりが伝わってくる。「もう、何年も前の忘れてしまった昔みたい・・・」
「さ、シャンパンを飲みましょう」
ぼくはシャンパンをグラスにみたし、洋子に手渡そうとした。
「飲ませて、明彦」
「え?ああ」ぼくはシャンパンを口に含み洋子にキスをして、シャンパンを彼女に飲ませた。
「おいしい。もっと欲しい」と洋子が言う。さらに飲ませる。「さあ、それから?」
「洋子、黙って」
ぼくは洋子のボタンダウンシャツを脱がせる。ジーンズのベルトをはずし、ジッパーをおろした。腰をあげさせて、両脚をジーンズから抜く。ベッドシーツをはがして、彼女を横たえ、シーツを彼女の体にかけた。椅子に洋子のシャツとジーンズをたたんでかける。ぼくも服を脱ぎ、たたんで、ソファーの上においた。アンダーパンツだけになって、シーツの中に潜り込む。
「明彦、よくキチンと服なんかたたんでいられるわねえ?」
「癖なんですよ。でも、これから洋子の着ているものはたたみません。脱がして、ベッドの下に落とすだけです」
ぼくは彼女にキスをして、背中に手を回してブラのホックを外す。ストラップを肩から抜いて、ブラをベッドのぼくの側の下に落とした。お尻をあげさせ、両脚を抜いてパンティーを脱がす。それもベッド脇に落とす。アンダーパンツをぼくは脱いだ。彼女の唇から、耳たぶ、首筋、胸の谷間と舌を動かしていく。乳首の周りから先端に向かって舌を這わす。脇腹、乳房の下、おへそと移動して、彼女の股間にぼくは体をずらしていく。
「明彦、私、今日シャワーを浴びていないのよ」と、洋子はぼくの頭に手をおいて言いった。
「気にしない。ぼくも急いできたので浴びていませんよ」
ぼくは、内股からふくらはぎ、つま先まで舌を這わせ、また、内股の方に移る。内股を愛撫して、洋子のものの周りに舌を這わせる。しばらくじらして、それから洋子の周りから洋子そのものを愛撫した。
洋子はぼくの髪の毛をかきむしっている。彼女が上体を起こすのがわかった。「明彦・・・」と洋子が言う「もう、ダメ」
「まだですよ、まだ」とぼくは彼女をじらせた。
「クッ・・・ダメ、もうダメ・・・」と彼女は体を震わせる。
ぼくは彼女の股間から頭を上げて、「洋子、まだだったら」と言った。洋子はぼくの頭をつかんで状態を起こしてキスをしてきた。ぼくはそのまま洋子の上体に体をあずけ、体をずりあげた。ぼくはぼくのをつかんで、洋子に押しつける。しばらく上下させる。「明彦・・・」と洋子が懇願するように言った。ぼくは挿れた。
「ア、アア・・・」
4時になっていた。洋子があえいでいる。ぼくは洋子の上から体を投げ出して、ベッドに仰向けになった。洋子の贅肉のないお腹が上下している。ベッドから起き上がると、バスルームに行ってタオルを取ってきた。タオルで、洋子の体の汗を拭き取った。洋子にタオルを投げかける。洋子のグラスをとって、シャンパンをつぐ。ぼくはそれを飲んで、洋子に口移しで飲ませた。
「明彦・・・」と、洋子がぼくの髪をさすった。
「洋子、よかったですよ。気持ちよかった」
「明彦、キミって・・・」
「何も言わない・・・まだ、4時ですから、ぼくたちには1時間近く時間がある」
「もっとくれるの?」
「だって、洋子だから。もっとあげたい・・・」
6時半になっていた。
そろそろ仮眠所に戻らないとアマネさんが起き出すかもしれない。今日は9時から大学の講義があり、必修科目なので欠席するわけにも行かない。
部屋に備え付けのデスクの引き出しを開けた。ホテル備え付けの便箋がある。洋子にメモを書いた。ぼくの実家の連絡先とかだ。
「洋子、そろそろ行かないといけないんだ。デスクにメモを置いておいたから。ぼくの連絡先」と言った。
洋子は「早くお帰りなさい。ホテルの人に気付かれちゃうわよ」と手を振った。ぼくは洋子の額にキスをすると、部屋を出た。
仮眠所に戻ると、幸いなことにまだアマネさんは寝ていた。手早くシャワーを浴びて着替えた。ホテルの従業員出入り口を出たのが7時15分だった。
受付係が「おや、宮部くん、今日は遅い退出じゃないか?」と言う。ぼくは「寝過ごしてしまいまして。大学に遅れてしまいます」と答えてホテルをあとにした。雨が降り続いていて、湿気がものすごい。
ぼくは新橋の駅に走った。
1983年1月15日(土)
●絵美と洋子1
ぼくと絵美は銀座をぶらついていた。並木通りのレストランで食事をしたり、ウインドーショッピングをしたりした。なぜか、彼女はぼくと一緒の時に下着を買いたがる。それもきわどい下着を買うのだ。そのくせ、ぼくらはセックス一歩前までいきながら、出会って3年近くも経つのにセックスをしなかった。別に彼女が拒んでいるわけではない。ぼくもそれほど求めているわけじゃない。なぜなのか、二人共わからない。なんとなく、未来のある日に、プレゼントが渡されるみたいなことが起こるんだろう。
就職して、アルバイトは止めてしまったが、時々ぼくは新橋の第一ホテルに行って酒を飲んだ。バーテンダーの吉田さんはまだ働いている。アマネさんはある時から何もホテルに言わずに来なくなったんだそうだ。フーテンでもしているのかもしれない。
当時の新橋の第一ホテルは今はない。1989年に老朽化していた新橋第一ホテル本館は閉鎖、1992年には新橋第一ホテル新館も閉鎖された。今あるのは、閉鎖された跡地に建てられ再開業した第一ホテル東京だ。ホテル運営会社自体は、2000年に経営破綻して、阪急阪神ホテルズが運営するホテルチェーンのブランド名で残っている。
夕方になって日もくれた。ぼくらは、銀座8丁目から右に曲がって、新橋第一ホテルに向かった。泊まるわけじゃない。最上階のバーで酒を飲むつもりだった。
エレベーターに乗り込んだ。ぼくらだけだ。絵美は腕をぼくの腕にからませた。
扉がほとんど閉まりそうになった時、だれかがボタンを押したんだろう。扉がまた開き始めた。「ゴメンナサイ」という声がして、女性が乗り込んできた。そこに黒のトレンチコートのポケットに手を突っ込んで立っている洋子がいた。
ぼくと洋子が同時に「アッ」と声をあげた。絵美が怪訝な表情でぼくと洋子の顔を見比べた。「明彦、お知り合い?」と絵美がぼくの顔を見て尋ねる。ちょっと考え込んでいる。絵美と洋子はお互いの顔を見ている。
「明彦、ご紹介してくださらない?」と絵美がニコッとして言う。ぼくは二人を見比べた。背の高さも同じ、小顔も同じ。二人共、もし他人がすれ違えば見返るように目立つ。「ああ、え~、こちらは島津洋子さん。こちらは森絵美さん」と言うが、どうにも気まずい。でも、二人共ニコッと笑って「初めまして」と言う。
「宮部くん」と洋子が気を利かしてぼくを名字で呼んだ。「お久しぶりね。森さん、素敵な方ね」
「あ~、どうも」とぼく。何を言えば良いんだ?
「ところで、何階に行くの?まだ階のボタン、押してないわよ」と洋子が振り返ってエレベーターの操作盤を指差す。
「ああ、最上階です」
「バーね?」
「ハイ」
「私もバーに行くところだったのよ。でも、お邪魔かしら?どうしましょう」とニヤニヤして洋子が言う。
絵美が「明彦、どうせなら、島津さんもご一緒してお酒を飲みましょうよ」とニコニコして絵美が言う。「あら、森さん、ご一緒してよろしいの?」「私はご一緒したいですわ」「じゃあ、そうさせていただこうかしら」ぼくにとっては空気が重い。
ぼくは我慢しかねて「絵美、洋子、ニコニコ、ニヤニヤして、これは勘弁して欲しい。いつもの調子で行こうよ。どうせ、絵美には洋子の話をしてあるし、洋子にも絵美の話はしてあるんだから」
「なんだ、つまんないわね。このエレベーターの中が水銀で満たされているようなままでバーまで上がったら面白かったのに」と洋子。
「私も洋子さんと呼ぼう。たしかに、明彦の顔を見ているだけで面白かったわ。洋子さん、明彦からあなたの話は聞いています」
「絵美さん、私も明彦からあなたの話は聞いているわよ。最初は加藤恵美さんかと思ったけど、これは絵美さんじゃないかと思ったの」
「あら?メグミさんの話まで?まあ、そうよね。私に出会うよりも先に洋子さんに明彦は出会ったんだから。時間軸の順番というわけではありませんけど。そう、年上の女性みたいだったので、洋子さんだと見当をつけました」
エレベーターが最上階に着いた。フロアに出ると洋子もぼくのもう片方の腕にしがみついた。両手に花ってことかな。やれやれ。
左手に曲がって、数段の階段を降りる。右手にバーカウンターがあって、バーテンダーの吉田さんがいた。こりゃあ、カウンターってわけにはいかないなあ。
吉田さんが「お!明彦、久しぶりだな。あれ、島津さんと森さんもご一緒?お二人共お久しぶりです。カウンターですか?」と聞かれる。
吉田さんは絵美と洋子をよくお客として見知っていたし、ぼくは彼女らを吉田さんに紹介したのだ。もちろん、別々に。だから、二人がぼくの両手にしがみついているので、これはなにか修羅場か?とでも思ったのかもしれない。「吉田さん、お元気そうで。テーブル席をお願いします」と答えた。
吉田さんが頭をフリフリして、一番奥の4人がけのテーブル席に誘導してくれた。一番奥。他のお客様の迷惑にならない席。
どう座るかな、と思っていると、二人は並んで腰掛けた。ぼくは二人の正面席へ。弁護士と心理学専攻の学生の正面。被告席なんだろうか。
吉田さんが「何になさいます?」と聞く。絵美も洋子も「明彦、いつもの」と声を揃えて言う。
「え~、牛のたたきを2つ、チーズの盛り合わせも2つ・・・洋子、食事は?」「軽く何か」「じゃあ、ピザ、マルガリータのラージを1つ。お酒は・・・絵美はマーテルのXO?ロック?じゃあ、ブランディーをダブル、ロックで。洋子はピンクジン?タンカレーベースでダブル、グラスで。ぼくは・・・グレンフィディックを・・・トリプル、ロックでお願いします」ふぅ~、やれやれ。
洋子が「二人共、ここにお泊り?」と聞く。絵美が「いいえ、銀座をぶらついて、それでお酒を飲もうという話で。洋子さんは?」「私は新潟からの出張で、ホテルは帝国ホテルに泊まってるの」「あら?帝国からこっちにわざわざ?」
「ここは馴染み深い場所だから、ね?明彦?」とぼくを見てニタっとした。
「絵美さん、明彦の顔を見ていると面白いわね?」
「私、楽しんでます」
「そりゃあ、そうよ。正面に本命の彼女と年上のガールフレンドが座ってるんじゃねえ。どういう顔をしていいやら、迷ってるわよ」
酒と料理が来た。「二人とも、乾杯しよう」とぼくが言うと、「何に乾杯?誰に乾杯?」と絵美が意地悪く言う。「そりゃあ、ボーイフレンドが本命の彼女を連れてエレベーターに乗っているところに、偶然乗り込んだ年上のガールフレンドとの再会に乾杯でしょ?」と洋子。「絵美、洋子、うるさい!ぼくたちに乾杯!」
洋子は、グビッとジンを飲んでしまう。絵美はいつもはチビチビと舐める飲み方だが、洋子につられてグビグビ飲みだした。やれやれ。酔うと絡んでくるんだろうなあ。頭の悪い女の子なら、その絡み方も楽しめるが、この二人だと、どんな搦め手で絡むかわからない。
「面倒だから、『さん』付けは止める!絵美は、ブランディー派なんだね?」と洋子。
「洋子さん・・・洋子はスピリッツ派なの?」
「そうでもないのよ。まんべんなくどの種類でも飲むわよ。新潟だから、日本酒も飲む。でも、最初にこのホテルに来た時に明彦が作ってくれたのがピンクジンだったから、ここではピンクジン」
「あら?その話、聞いてない」
「1978年のこと。5年前?クリスマス・イブ。やっぱり出張で東京に出てきて、帝国ホテルが満室だったから、ここに部屋を取ったの。それで、夜の11時ぐらいにここに来て、カウンターに座ったらバーテンダーでこの男がいたってわけ」とぼくを指差す。「それで頼んだのがピンクジン」
※第4ユニバース、第六話 洋子 Ⅰ参照
「1978年?私が初めて明彦に会ったのが、1979年の2月のことだったから、2ヶ月前の話ね」
「初めて出会った時は明治大学の講堂でしょ?絵美は、Keith Jarrett の Köln Concert を弾いていたって聞いたわ。私はピンクジンで、あなたはピアノ?格調が違うわね。不公平よ」いや、初めて出会うシチュエーションに格調も公平性もないものだ。やれやれ。
「あの時は、明大を出た後、山の上ホテルのバーでお酒を飲んだの」
※第4ユニバース、第七話 絵美 Ⅰ参照
「ふ~ん。私はピンクジンを飲んだ後、部屋にクリュッグを頼んで、寝ちゃったわ」と素知らぬ顔で洋子。チクッとした。
「ねえ、洋子、ピンクジンって美味しいの?」
「飲んで見る?」と洋子が絵美にグラスを差し出す。絵美が受け取ってグビッと飲む。「あら?美味しいじゃない。これは・・・」
「キンキンに冷やしたジンにアンゴスチュラビタースを3滴垂らして、カットレモンをグラスの上でキュッと絞って作るのよ。ねえ、明彦」
「ご名答」とぼく。ぼくに会話を振るんじゃない。
「ビターが効いていて、ストレートのジンよりもまよらかな味ね。私にとってはほろ苦いけど。でも、美味しいわ」と絵美。また、チクッとした。
二人とも10分と経たない内にグラスを空けてしまう。ぼくはお代わりを頼もうとした。「二人とも、同じものか?」と聞く。「私はピンクジン、飲んじゃおう。トリプルでね。頼むの面倒でしょ?」と絵美。「じゃあ、私は、マーテルのXOのロック、同じくトリプルでね」と洋子。二人で飲むものを交換したってことか。また、チクッとした。
「ねえ、絵美の専攻は心理学って聞いたけど」
「ハイ、犯罪心理学の博士課程に在籍してます」
「日本で犯罪心理学の需要があるのかなあ」
「洋子、それが教授も言ってるんですが、あまりないんですよ。犯罪件数自体も欧米に比べて少ない。猟奇的殺人事件も起こりません。どうしようか、考え中です。プロファイラーなんて面白いのですけど」
「プロファイラー?ああ、プロファイリング、分析捜査のことか。犯罪者の特徴や性格、職業や年齢、住んでいる場所とかを行動科学的に犯人像を推論する分野だね」
「あら、よくご存知で。ああ、そうか、洋子は企業と犯罪分野の弁護士ですものね」
「明彦から聞いたのね。そう、ちょっと大学院の時に調べたことがあったの」
「洋子の大学って・・・」
「パリ大学、ソルボンヌ。卒論がね『ナポレオン法典』だったわ」
「え~、興味深い」
「フランス民法典が正式名称なの。なんでそんなの選んじゃったんだか。で、大学院の時、パリで複数殺人の猟奇事件があって、それを調べていたら、アメリカではFBIが犯罪捜査で捜査を効率化することを目的としてプロファイリングが始められた、なんて出てきたので、興味を持ってちょっと調べたの」
「洋子、もっと教えて。私の進路、どうしたら良いんだろう?日本に居ても大学に残るか、警察庁にでも就職するか、どっちにしても、件数が少ないからケーススタディーができないわけだし・・・」
「そうよねえ、日本に居てもねえ・・・」おいおい、洋子、絵美を海外に行かせちゃうつもりか?「行くとするとニューヨークかな?ニューヨーク大学(NYU)じゃない。ニューヨーク市立大学(CUNT)に行けばいい。大学の格で言えばニューヨーク大学だけどね。ニューヨーク市立大学の上級カレッジには、ジョン・ジェイ刑事司法大学があるのよ。法科大学だけど、法学部だけじゃなくて心理学部もある。ジョン・ジェイで学んで、FBIの訓練生に潜り込むというのもありかもね」
「なるほど。洋子、連絡先を教えていただけないかしら?いろいろご相談したいわ」
「いいわよ」と言って洋子がハンドバックから名刺を取り出した。名刺に家の電話番号を付け足して絵美に渡した。絵美もメモ紙に連絡先を書いて洋子に渡す。インターネットなどない時代なのだ。連絡先も固定電話なんだ。
ぼくが変な顔をしていたんだろう。洋子がぼくを見て「明彦、彼女を海外に送り出そうとしてるな?この女は!という顔をしてるわよ。絵美が聞いてきたんですからね」
「どうコメントして良いのか・・・」とぼくが言うと、
「ヘヘヘェ、意地悪しちゃおうかな?絵美はね、アメリカ行きに興味を持っているけど、私がいるでしょ?ねえ、絵美、そうでしょ?」と絵美に聞くと絵美がコクンと頷いた。「でもね、私も日本にいなくなっちゃうとしたら?どう?」と言う。絵美がええ?という顔をした。
「実はね、パリ大学時代の教授が、モンペリエの法学の助教授の空きがあるから来ないか?って言われたの。アジア人で初めての教授職で、『ナポレオン法典』を教授して欲しいってね。それで、ウンと言っちゃったの。だから、4月頃からフランスに行こうと思っている。ね?絵美?どう?私が日本にいなくなれば、あなただって、ニューヨークに行くのを躊躇しないでしょ?・・・あ~あ、私って意地悪よねえ」
「それ、私だって、どうコメントして良いのか・・・」と絵美。
「まあ、よく考えなさい。私が渡仏する前に、いろいろと教えてあげるわ。アメリカにも知り合いがいるから聞いてあげる。フフフ、私だってさ、モンペリエに行っちゃうから、絵美だってアメリカに行っちゃえば・・・ああ、意地悪ねえ、私」
「ああ、思い出した。4年前の夏、明彦と付き合いだして半年くらい経った頃、『今日の京の酒蔵と和紙所』展示会が神田で開催されていて、そこで、明彦の大学時代の恋人に偶然であったの。雅子さんという人。実家の事情で、大学を辞めて、明彦と別れて、京都の酒蔵に嫁いだの。あの時も明彦は変な顔していたわ。それはそうよね。自分と別れて、京都に戻ってしまった女性と偶然、私と一緒の時に再会するんですもの」
「雅子さん?その人もその話も、知らないなあ。ねえ、聞きたいんだけど。どういうことだったの?」と洋子。
「あれは、1979年8月のことだった・・・」と絵美が話し出す。
●1979年8月
その年の夏、酒造りのオフシーズンでもあり、「今日の京の酒蔵と和紙所」展示会とカンファレンスの開催にこぎつけた。関東の旧来のお付き合いのバイヤーさん、新規のバイヤーさんなどの取引先に招待状を出した。また、一般の方にも酒造り、和紙づくりを知ってもらおうと新聞広告も出した。義父は義母の面倒もあり参加できず、私の亭主とパパ、兄は二日遅れで参加する。展示会を回すのは、私と義妹と女将さんたち。女の時代よ。
私は、婚家の酒蔵のブースと実家の和紙のブースを行ったり来たりして、社員の応対を補佐していた。酒蔵のブースでは、酒枡をピラミッドにしたりして、見た目にもかなり凝ったつもりだ。展示品は、一升瓶の汎用製品の日本酒の他に、低温殺菌の純米酒を当時は珍しかった500ml、720mlのグラスに詰めたものも展示していた。これは冷酒で飲んで欲しい。試作品の純米大吟醸酒も展示した。
むろん、展示だけではなく、試飲もしていただく。初見さんのお客様もいれば、関東地方のバイヤーさんなどもいて、顔見知りのお客様だと、試飲が試飲でなくなってしまって、ぐい呑で何杯もお代わりをされる方もいた。私もマズイなあとは思いつつ、お客様と盃を交わしてしまい、少々酔ってしまった。
昼過ぎになり、昼食時間でお客様も多少まばらになった。私は、酒蔵のブースを義妹にまかせ、和紙は私が見るということで、他のスタッフを昼食に送り出した。
和紙のサイズは、半紙判という333x242ミリから、画仙紙全紙だと1366x670ミリまである。今回は、さまざまな原色を組み合わせて、画仙紙全紙を十二単のような扇状に展示していた。元美術部だから、補色とかいろいろ考えてしまう。お客様にご覧になっている内に扇形が崩れてしまったので、私はそれを整えようとしていた。画仙紙全紙は大きいので、綺麗に扇状にするには手間がかかった。展示テーブルに俯いて、和紙をなんとか元通りに直していた。
急に照明が遮られて影が和紙に射した。あら、お客様かしら?と思った。私の上から声が降ってくる。「あの、作業中に申し訳ありませんが、和紙の製法についてお聞きしたいんですが・・・」とその声は言う。聞き覚えのある声だった。私は上体を起こした。
立ち上がって背を正して、お客様と向き合った。「いらっしゃいませ。どのような製法について・・・」と言いかけて、私は言葉を飲み込んでしまった。三年ぶりの懐かしい人の姿が正面に立っていたのだから。
彼も驚いていた。偶然にしても出来すぎじゃない?ただ、彼の隣には彼女らしい背の高いスラリとした女性の姿もあった。私も彼も見つめ合ったまま、言葉が出ない。
何秒か、だったのだろう。でも、それが無限に続くかと思われた。彼の隣の女性が怪訝な顔で私たちを見ているのがわかった。私の顔をジッと見て、彼の顔を見比べている。「あら、お知り合いだったかしら?」と彼女が言う。
彼女はブースの上の実家の店名を見ていた。「小森・・・」と首を傾げて、思い出そうとしていた。「・・・あなたは、もしかすると・・・雅子さん?」と彼女が言う。なぜ、この見も知らない女性が私の名前を知っているんだろうか?
急に彼に言語能力が戻ってきたみたいだ。私の言語能力は退化したままだった。彼が「雅子・・・」と私に呼びかける。その時、ブースに実家の社員が戻ってきて、「若女将、昼食終わりましたので、どうぞ、代わりに行って下さい」と私に言う。
「え?昼食ね。今、このお客様が・・・」と社員の女の子に言いかけると、彼が「そうですか。これから、昼食ですか。私もご一緒しても構いませんか?ねえ、絵美、あの昼食を・・・」と彼が彼女を振り返っていいかけた。
絵美と呼ばれた彼女は、「私、ちょっとまだ見ていくから、小森さんさえ構わなければ、二人で先に行かれたらどうかしら?外に出て左に行くと明神様の御門の正面に明神そば屋さんがあるわよ?あそこではどうでしょう?」とテキパキと私と彼の顔を見ていった。
彼が「・・・うん、じゃあ、絵美、そうさせてもらうかな。小森さん・・・ああ、小森さんは旧姓でしたね。齋藤さんかな?齋藤さん、どうでしょう?その明神様のおそば屋さんに行ってみませんか?」と私に言う。私はまだ言葉が出ない。頷いてお辞儀をしてしまった。それで、彼に誘導されるようにして、ブースを離れて、おそば屋さんに向かった。足元がフワフワして、和服の裾がうまく裁けない。よろけてしまう。彼が肘を支えてくれた。
そば屋さんに行く間も言葉が出ず、彼も何も言わなかった。そば屋さんの奥の板の間のテーブルに着いた。しばらく、テーブルを見つめていて、顔を上げると彼が私を見つめていた。「雅子、三年ぶりだね。不意打ちだ。こんな所で会うなんて」と優しく言う。昔よりも声が低く太くなったかしら?
「あ、明彦・・・」懐かしい、面映い、そして、二度と会うとは思わなかった。言葉が続かない。「結局、雅子とぼくが行くプラド美術館の夏は訪れなかったね」と彼が言う。こら!明彦!私が泣くようなことを言うな!泣いちゃうじゃないか!バカモノ!
美沙子さんの言葉がたくさん思い出された。
「二人の運命のめぐり合わせは交差しなかったのよ。二人共が最終ゴールじゃなくて、通過点だったということ」
「明彦にとって、雅子は、通過儀礼だったのよ。人間が成長していく過程で、次の段階に移行する期間で、どうしても通らねばいけない儀式だった。大人になるための儀式。それが、雅子にとっては明彦だった。明彦にとっては雅子が儀式だったのよ。ある意味、私も二人の儀式なのかな?」
「雅子と明彦は未来でも二度と交差しないと決まっている」
美沙子の嘘つき!『未来でも二度と交差しないと決まっている』って何よ!目の前に今その交差している本物がいるじゃない!馬鹿野郎!
私は、着物の袂からハンカチを取り出し、目尻に当てる。彼が言葉を続けた。「美沙子も電話をしてきた。彼女がキミの最近の話をしてくれた。彼女も言っていた。雅子も同じだわって。ぼくのことを聞きたがっているって。美沙子は伝書鳩みたいだね」お願い!それ以上言わないで!涙が止まらなくなるわよ!
私が涙を堪えていると、彼女がやってきた。チェアを引いて音もなく座った。彼女が身を乗り出してテーブル越しにハンカチを握りしめている私の手をそっと包み込んだ。「雅子さん、私はあなたのことをよく知っているんです。明彦から聞いています。美沙子さんともお電話でお話ししたことがあります。私ね、あなたに嫉妬しちゃったの。たった、数ヶ月のお付き合いで、この明彦があなたについてたくさん話せることがあるんだと。私だったら、そんなに話せることはないんじゃないかしら?って、妬けちゃった」
私は顔を上げて彼女を見た。さらさらした長い髪、体つきはしなやかで背が高く、スラリとしたウェストと小ぶりな胸。日本人にしては高い鼻。テーブル越しでも強靭な意志と聡明さを感じた。おいおい、明彦、私、彼女に負けてる。
「美沙子さんが言っていた・・・御茶ノ水の明大の小講堂で明彦が出会った女性がいるって。あなたが、森、絵美さん?」
「はい、森絵美です。小森・・・齋藤さんか。齋藤雅子さん、どうぞよろしく」
「絵美さん、会えて良かった。でも、複雑な気持ちなのよ」
「わかるわ。元カノと今カノという単純な話じゃないものね?困っちゃうなあ。それはおいておいて、少し遅れてやってきましたけど、二人共、二十分くらい、お通夜してたのね?三年前のお通夜を。それで、オーダーもまだしていないんでしょう?明彦、食事のオーダーくらいしなさいよ。それとも胸が一杯で食事も喉を通らないの?」
「わ、わかったよ、絵美。雅子、何を食べる?」とテーブルの上にあったメニューを開いて私に渡した。
先にメニューを開いていた絵美さんが「う~ん、おそば屋さんは、おそばにするか、ご飯物にするか、いつも迷うのよねえ。うなぎもある。天丼とお蕎麦というベタなチョイスもある。鴨南蛮にカツ丼、どれにしましょう?天丼と鴨つけそばかしらね?そうしましょう。雅子さんは何にする?」と聞かれた。
「え?私は・・・」そうだ。会場の準備で、朝食もとっていなかったのだ。急にお腹が空いたのに気づく。絵美さんも二品注文したことだし、私だって二品でもおかしくないわね?って、どうも京都の癖で、何かと他の人を気にする癖が付いてしまったようだ。「私は、カツ丼と鴨つけそばにします」と答えた。グゥ~っとお腹がなった。明彦もウナ丼と鴨つけそばを注文した。「ついでに、ビールもいいだろう?二人共?」とビールの大瓶を三本注文してしまった。まあ、ビールくらい良いかな?
料理が来た。話の糸口がつかめない。絵美さんのことを聞いてみようか?
「絵美さん、さっき私の実家の和紙ブースの上にあるウチの店名を見られて、『小森』から私の名前を思い出されたようですけど、明彦から私のことを聞いていたんですか?」
「ウフフ、雅子さん、気になる?気にならないほうがおかしいわよね?」と頬杖をついて絵美さんは私の顔をジッと見た。「前に付き合っていた人の話が話題に出て、明彦は『あまり趣味が良くない話題』と言っていて渋々だったけれど、私が根掘り葉掘り聞いたのよ。彼の話しを聞いていて、明彦がお付き合いした女性の中で、あなたが特に印象に残ったの。あ!美沙子さんもね」
「明彦!」と私は彼を睨みつけた。
「雅子、ぼくとキミの間もそうだったけど、ぼくと絵美の間も隠し事なしだ。もちろん、彼女に聞かれたから話した。プライバシーに関わることだけど、キミには二度と会えないとも思っていたからね。美沙子は気にしなかったよ。面白がっていたよ」
「明彦!」
展示会の開催されている明神様の会館の道すがら、絵美さんが私の腕を握って歩いた。あ、この人とはお友達になれそうと思った。会館のエントランスに入って、絵美さんが立ち止まる。
「雅子さん、あそこの柱の後ろ、見える?あそこなら、誰にも見られないと思わない?」と絵美さんが言う。
「え?」何の話?
「ほぉら、明彦とあそこに行って、隠れて、彼にハグしてもらっちゃわない?もう、こういう機会はないかも。三年前、東京駅で別れてから、二人共モヤモヤしてるんでしょう?私、気にしないから。最後に、二人で封印しなさいな」などととんでもないことを言い出す。
「絵美、なんてことを・・・」「絵美さん、私は亭主持ちで・・・」と明彦と私が言いかける。
「あらら、一生、後悔するわよ。私が良いっていうんだから、雅子さんの旦那さんの了解はないけど、すればいいじゃない?雅子さん、明彦、しなさいよ。私、あなた方が誰にも見られないように、見張っていてあげるから・・・」と私と明彦の肩を突いて、柱の陰に押し込んでしまった。絵美さんは、エントランスの中央に行ってしまって、ブラブラしている。
「・・・」
「強引なんだよな、絵美は。あのさ、雅子、どうする?」
「どうするって・・・いまさら、私に、そんなこと聞くの?」こいつの鈍感さはたまに頭に来ることがあった。今もそうだ。何も聞かずにキスすれば良いんだ。私が最後のキスを欲しがっているのがわからないのだろうか?
彼が私の腰に、私が彼の首に腕を回した・・・これで、本当におしまいなんだな・・・私は彼に抱かれて、キスをしながら思った。
もう、交差しないのだ、私たちは。
●絵美と洋子2、1983年1月15日(土)
「そっかあ、そんなことがあったんだ。雅子さん、可哀想だなあ。でも、絵美も寛大よねえ」と洋子。
「洋子、雅子さんとのことも明彦は全部話してくれて、ああ、もしも、雅子さんが京都に帰っていなければ、明彦と私は出会わなかったんだなあと思って。『最後に、二人で封印』の儀式くらいさせてあげないと。私が無理に二人を押したんだけど」
「確かに、私が絵美の立場でもそうしたかな」
「そうでしょう?」
「確かに、明彦は困った男だからなあ。ねえ、絵美、『二人で封印』ならさ、いっそのこと、明彦をフランスに連れて行くのはダメ?ねえ、明彦、私とフランスに来ない?養ってあげるから、家事をして。私、家事、出来ないから」
「それは絶対にダメです!洋子、ダメです!だったら、ニューヨークに行きません!」と絵美。
「あら?じゃあ、私が明彦をフランスに連れて行かなかったら、あなたは、ニューヨークに行くってことなの?」
「え?・・・あれ?」
「ふ~ん、これもまた運命よね。偶然、私と会っちゃたんだから。ね?明彦?」
「・・・」
その夜、絵美と洋子は、ぼくをそっちのけで、法学の話や犯罪心理学の話をして盛り上がった。やれやれ。
A piece of rum raisin - 単品集
ヰタ・セクスアリス(Ⅰ)雅子 総集編1
ヰタ・セクスアリス(Ⅰ)雅子 総集編2
ヰタ・セクスアリス(Ⅰ)雅子 総集編3
挿入話『第7話 絵美と洋子、1983年1月15日/1983年2月12日』
登場人物
宮部明彦 :理系大学物理学科の2年生、美術部
小森雅子 :理系大学化学科の3年生、美術部。京都出身、実家は和紙問屋
田中美佐子:外資系サラリーマンの妻。哲学科出身
加藤恵美 :明彦の大学の近くの文系学生、大学2年生、心理学科専攻
杉田真理子:明彦の大学の近くの文系学生、大学2年生、哲学専攻
森絵美 :文系大学心理学科の2年生
島津洋子 :新潟出身の弁護士
シリーズ「A piece of rum raisin - 第1ユニバース」
第1話 メグミの覚醒1、1978年5月4日(火)、飯田橋
第2話 メグミの覚醒2、1978年5月5日(水)
第3話 メグミの覚醒3、1978年5月7日~1978年12月23日
第4話 洋子の不覚醒1、1978年12月24日、25日
第5話 絵美の覚醒1、1979年2月17日(土)
第6話 洋子の覚醒2、1979年6月13日(水)
第7話 スーパー・スターフィッシュ・プライム計画
第8話 第二ユニバース
第9話 絵美の殺害1、第2ユニバース
第10話 絵美の殺害2、第2ユニバース
第11話 絵美の殺害3、第2ユニバース
シリーズ「フランク・ロイドのヰタ・セクスアリス(Ⅱ)-第4ユニバース
第一話 清美 Ⅰ、1978年2月24日(金)
第一話 清美 Ⅱ、"1978年2月24日(金)1978年2月27日(月)
第二話 メグミ Ⅰ、1978年5月4日(火)
第三話 メグミ Ⅱ、1978年10月25日(水)
第四話 メグミ Ⅲ、1978年10月27日(金)
第五話 真理子、1978年12月5日(火)
第六話 洋子 Ⅰ、1978年12月24日(土)
●クリスマスイブのホテル・バー
●女性弁護士
第七話 絵美 Ⅰ、1979年2月17日(土)
●森絵美の家
●御茶ノ水、明治大学
●明大の講堂
●山の上ホテル
第八話 絵美 Ⅱ、1979年2月21日(水)
第九話 絵美 Ⅲ、1979年2月22日(木)
第十話 絵美 Ⅳ、1979年3月19日(月)1979年3月25日(日)
第十一話 洋子 Ⅱ、1979年6月13日(水)
メグミちゃんの「ガンマ線バースト」の解説
マルチバース、記憶転移、陽電子、ガンマ線バースト
シリーズ「雨の日の美術館」
フランク・ロイドのブログ
フランク・ロイド、pixivホーム
シリーズ「アニータ少尉のオキナワ作戦」
シリーズ「エレーナ少佐のサドガシマ作戦」
A piece of rum raisin - 第3ユニバース
シリーズ「フランク・ロイドのヰタ・セクスアリス-雅子編」
フランク・ロイドの随筆 Essay、バックデータ
弥呼と邪馬臺國、前史(BC19,000~BC.4C)
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