【ジャズ喫茶物語り3】午後のひととき
前の話はこちら↓
昼は簡単にピザトーストを作って、店のテーブル席で妻と向かい合って食べた。そういえば昔、ピザトースト用のソースのCMに出させてもらったこともあったなぁ、などと懐かしく思い出す。
妻はその後、ちょっと用事があると言って出かけていった。片付けを終えて、食後のコーヒーをすすっていたとき、店のドアを叩く音が聞こえた。開店まではまだ時間がある。なんだろうと思って出てみると、今夜のライブをやるグループの、ボーカルだと名乗る青年だった。
「落ち着かなくて早く家を出ちゃって…できればちょっと歌、練習しててもいいですか?バンドの子たちもじきに来ると思います。」
「まぁ構わないよ。にしてもずいぶん早いねぇ。」
「実は、今日は初めて彼女が聴きに来ることになってて…ソワソワしちゃって」
それを聞いて、私は青年を心の中で応援せずにはいられなくなった。
学生は荷物を置くと楽譜を取り出した。なにやら色々赤ペンで書いてある。彼は椅子に座って、楽譜に時折目を落としながら、歌を口ずさむ。
今日ミニコンサートをするのは、近くの大学の音楽サークルのメンバーらしい。ジャズと聞いているが、どんな演目なのだろう。店の備品の準備をしながらも、つい学生の様子が気になって、耳をそばだてる。すると“My foolish heart” というフレーズが聴こえた。My Foolish Heartか…。
この曲は昔通ったジャズバーのオーナーが、私のテーマソングだと言って、私が行くたびに歌ってくれたものだ。なぜ彼がこの曲を私のテーマ曲にしたのか、理由ははっきりしない。でもこの曲を聴くたび、その頃の自分を思い出す。仕事でうまくいかなかったとき、そして恋に破れた時も、この曲がそばにあった。
にしてもこの学生、彼女の前でこの曲を歌うのは、さぞかし緊張することだろう。
「渋い選曲だね。どこで覚えたの?」気づくとつい声をかけてしまっていた。
「この曲、YouTubeで見かけたんです。で、すごくかっこいいなぁって思って。それで歌ってみようかなって。」学生はゴソゴソとポケットからスマホを取り出すと、その動画を見せてくれた。どれどれと覗き込むと、驚いたことに、そこに映っていたのは、若かりし頃の自分だった。
これ、俺じゃん!と言いそうになったところで、ぐっと口をつぐんだ。言ったところで、どうこうなるものでもなし、それに青年の練習時間を奪ってしまう。そうかそうか、じゃ、頑張ってと言葉をつないで、会話を終わらせた。
若者は、それからしばらく歌の練習をした後、バンドのメンバーから道に迷ったと連絡があったらしく、迎えに店を出て行った。
また一人になった店内で、さっき見せてもらった映像を思い出しながら、かつての自分のテーマソングを口ずさんだ。
Her lips are much too close to mine
(彼女の唇がもう、私の唇に迫っている)
Beware my foolish heart
(落ち着いて、私の愚かな心よ)
But should our eager lips combine
(でも唇が熱く重なりあったなら)
Then let the fire start
(心に火をつけよう)
For this time it isn't fascination
(これはただの誘惑でもなく)
Or a dream that will fade and fall apart
(一夜にして消えてなくなってしまう夢でもない)
It's love this time, it's love, my foolish heart
(これは愛だ、愛なんだ。私の愚かな心よ)
さて、青年は彼女にいいところを見せられるだろうか。自分が歌うわけでもないのに、勝手に緊張などしている。にしても、自分がきっかけでこの曲を歌ってくれるなんて、なんと嬉しいことだろう。喜びからか、なんだか胸の辺りが温かく感じた。
筆者注)
・本作は実在の人物を参考にして作ったフィクションです。
・訳詞は私作ですが、解釈誤りなどありましたらご指摘いただけたら嬉しいです。