【ジャズ喫茶物語り4】ライブから戸締りまで
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いつの間にか外も暗くなり、19:00のライブのスタートに向けての準備もほぼ完了した。今日のライブは2部構成。19:00から20:00の1時間と、休憩を挟んで20:30から21:30の1時間、計2時間だ。
じきに時間が近づいてきて、少しずつお客さんも入ってきた。顔馴染みもいれば、学生バンドの知り合いと思しき若者たちもいる。ドリンクや軽食、おつまみの注文を取っていると、学生らしき集団の中の一人の女性が、バンドメンバーの方をちらちらと見ている。この人が多分ボーカル君の彼女だろう。なんとなく、勘で分かる。なんだかくすぐったいような気持ちになる。
やがて19時になり、ライブが始まった。最初は”S' Wonderful”。自分も前に歌ったことがあるなぁなどと思いながら、荒さはややありつつも心地よい音の中に身を委ねる。なかなかみんなよく練習している。
その後もトークも交えつつジャズのスタンダードが続く。若い学生グループでこんなに耳馴染みある曲を聴くことになるとは思っていなかった。
これもまたスタンダードの ”Fly Me To The Moon” に聴き入っている時に、入ってきた女性がいた。顔が見えた時、ドキッとした。一昨日ハンカチを忘れて行った友人だったからだ。
そっとドアの方へ移動する。彼女は小声で、「ごめんね急に。時間がちょっとできたもんだから…。今日もライブだったのね、いい?聴いて行っても。」と言った。
私は「あ、あぁ、もちろん。そこ座って」とだけ言って、なんとなく妻の冷たいような視線を感じながら、元いた場所へそそくさと戻った。
20時になり、一旦休憩となった。バンドメンバーを激励しにいく学生客もいる中で、ボーカルの彼女と思しき女性は席についたままで、伏し目がちに薄くなったジントニックを啜っている。
なんだか今日はジントニックがよく出る。自分も若い頃はよく飲んだ。よく行ったジャズクラブで、ジントニックを飲みながら、気怠いジャズを聴いて。聴き終わる頃には、憂鬱だった気持ちが少し晴れて、また明日も頑張るか、と前を向く。そんなことをしていた自分が、今は店をやっているなんて、不思議なものだ。
そんなことを思ってから、そうだ、と思い出して、私はささっと友人のところへ行って、例の白いハンカチを渡した。
「はい、これ。びっくりしたよ、突然来るもんだから」
「私も今日来ようとは思ってなかったのよ。たまたまこの近くで打ち合わせがあって、それも早く終わったものだから…ごめんね、驚かせて。ハンカチありがとう。」
「いやいや、全然いいんだ。良かった会えて。この後も聴いていく?」
「ええ、そうするわ。」
「そういえば飲み物の注文も聞かずにごめんね、何か飲む?」
「じゃあジンジャエールにしようかしら。」
「わかった。」
友人にジンジャエールを出し、他のお客のおかわりの注文や、新しく入ってきたお客さんへの対応をしているうちに、あっという間に2部の開始時間になった。
1部ではまだ"My Foolish Heart"は歌われていなかったはずだ。2部できっと歌うのだろう。自分が歌うでもないのに、ソワソワとしてしまう。
他の曲を数曲歌ったところで、ボーカル君が緊張した面持ちで「次は今回初めて歌います。"My Foolish Heart" 。大切な人のために、歌いたいと思います。」そう彼が言った時、彼女と思しき女性は、伏し目がちだった目をしっかりと彼の方に向けた。
緊張からか僅かに震える声。しかしそんなことはどうでも良いくらいに、気持ちの籠った良い歌だった。終わった時には思わずブラボー!と言っていた。店は拍手で溢れた。心なしか彼女と思しき女性も、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
その後も彼らは数曲を演奏し歌い、ライブは終わった。
ハンカチの彼女は私の方に来て、「いや、素敵だったわ。中でも"My Foolish Heart"が一番良かったわね。」と言ってウィンクした。
まいったな、と心の中で独りごちて、あはは、と笑って誤魔化した。そうだ、あのジャズバーに、彼女も一緒に行ったことがあるのだった。
「今日は忘れ物ない?気をつけてよ」必死に話題を逸らした。
「はーい、今回は大丈夫だと思うわ。また寄らせてね」
「うん、いつでもおいで」
そう言って、私は彼女の後ろ姿を見送った。ふと横を見ると、扉の脇にボーカル君の彼女が立っていた。さっきお会計を済ませたはずだが、どうやら彼を待っているようだ。
「誰か待っているかい?」何も知らない体で聞いてみたものの、「あ、いえ」と言って俯いてしまった。それ以上何か言うのも、と思って「そうか」と言って自分は店の中に戻った。
ボーカル君は片づけを終わらせて、ステージの方を見ていた。
こちらに気づくと「あ、今日はありがとうございました。いいライブになったと思います。」と言った。
「うん、なら良かった。いつでもまた使ってよ」と返した。
精算やらを済ました彼は、笑顔で店を後にした。きっと今頃、外の彼女と一緒に今日の感想など言い合ったりしているだろう。
がらん、しんとなった店の中を眺めて、今日あったことを振り返る。なんだか不思議な1日だった。歌を生業にして歌ってきたからこそ歌が作ってくれた人の繋がりや出来事。過去、今、そして先を繋いでくれる、それが歌であり音楽なのだな。そうしみじみと感じた。
さて、片づけ終えて自分も帰るか、とひと伸びをしてふと目線を落とすと、パールのイヤリングが落ちている。あれっと拾うと、見覚えがあるような気がして思いを巡らす。思い出した、これはあのハンカチの彼女に昔プレゼントしたイヤリングだ。まだ着けてくれてたのか。そして結局また忘れ物してるじゃないか、と呆れるような気持ちになって、「やれやれ…」と言葉が漏れた。
「何がやれやれなの、早く片付け終わらせて帰りますよ」と妻の声。ドキッとして咄嗟にイヤリングをポケットに滑り込ませ、「あ、そうだね。ごめんごめん」と答えて慌てて片付けを終わらせた。
友人にはまた明日電話しようか。それともまた来るのをしばらく待ってみようか。そんなことを考えながら、戸締りをして、ドアを閉めた。
筆者注)
・本作は実在の人物を参考にして作ったフィクションです。