【ジャズ喫茶物語り2】開店準備:小さな忘れもの
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私の営むジャズ喫茶の営業は、夕方から夜にかけてだ。夜といってもそんなに遅くまではやらない。歳もとったし、せいぜい23時までがいいところだ。夜通し曲を作ったり歌ったりしていたときもかつてはあったなぁ…などと懐かしみながら、今は早々に床につく。
今日は火曜日。昨日は休業日だったから、ちょっと心と体の準備に時間がかかる日だ。朝から一通り店の中を掃除して、今日のライブのスケジュールをチェックして、機材やら座席やらの準備をする。今日は19時から若い学生で編成されたバンドのミニコンサートだ。
ふとカウンターの椅子の脚元に目をやると、見慣れぬものがあった。白いレースのハンカチだった。そういえば、と思い返すと、一昨日そこに座っていたのは、私が引退後、ここでジャズ喫茶をやっていると聞きつけて尋ねて来てくれた友人だ。彼女の忘れ物だろうか。
彼女はなんの前触れもなくひょいとやってきた。会ったのは何年振りだろう。酒は飲まない彼女は、ジンジャエールを飲んで、ジャズに耳を傾けていた。私はステージで歌っていたから、あまり長くは話せなかったが、帰り際に少しだけ話をした。彼女も仕事は引退したというが、女優をやっていた頃の知り合いづてにこの店のことを聞いたという。去り際、彼女はこう言った。
「この店すっごく君っぽくて、素敵。長く続けてね。」
さてこのハンカチはどうしたものか、と少し思い悩んで、携帯電話を取り出した。電話帳を見ると、かなり前に電話番号は交換していた。発信ボタンをそろりと押す。繋がるだろうか?
コール音が数回鳴ったところで、女性の声がした。彼女の声だ。番号は変わっていなかった。
「ごめんね急に電話して…いや、おとといはありがとうね。それでさ、今店の準備してたら君の座ってた席の床にハンカチがあって。忘れて行ってない?あ、やっぱりそうか。そしたら家に送ろうか?」やや早口気味にそういうと、彼女は「いいの、また寄らせてもらうわ」と言った。
それを聴いて、ドキッとした。
「そう、じゃぁまた来てもらった時に。ありがとう、またね。」
電話を切ったあとも、しばらくなんだか落ち着かなかった。というのも、我々はかつて恋仲でだったからだ。と言っても、遠い遠い昔の話だけれど。
4つほど年上の彼女は、気が強くて、負けん気が強い江戸っ子気質だった。かといって人を終始振り回しているかといえばそうでもなく、よく話を聞いてくれる人だった。彼女と夜な夜な話をするのが好きだった。
互いに仕事の合間を縫っては会い、一緒に暮らすところまで行ったけれど、色々あって別々の道を行くことになった。でもその後も時折顔を合わせることはあって、時には仕事で共演したりもした。
もちろん互いに歳はとったけれど、一昨日の彼女はやはり芯があり、美しかった。
「誰に電話してたの?」
ぼうっと一昨日の彼女の様子を思い出していたところに、急に聞こえた声に驚いた。妻だった。
「あ、いや、一昨日来てくれた友達がさ、ハンカチ忘れて行ってたみたいで。また来てくれるらしいから、そのとき返すことにしたよ。」
「そう。」妻はそっけなくそう答えた。心なしかつんけんしていて、何か察しているような気すらする。
妻は年下で、今から干支一回り前くらいに結婚した。元々私のファンでいてくれたのが、仕事で何度か一緒になったりする中で徐々に距離が縮まり2人で会うようになった。
妻はおしゃべりが大好きで、お酒を飲みながら延々と楽しそうに話す。私はどちらかといえば聞き役に回ることが多いけれども、楽しそうな妻を見ていると、太陽の下にいるような温かい気持ちになる。
もし例の彼女と結ばれていたら、今の妻と結婚してそんな気持ちを感じることもなかったのだろう。
一昨日彼女が店に来たとき、思いの外普通に-と自分では少なくともそう思った-話せたのも、別れてからの色々があってこそなのだ。
それでも彼女のことを想うたび、心の底が少しぎゅっとするような、そんな気持ちになる。
気づくとアコースティックギターを手にとっていた。アズナブールのあの曲をなんだか歌いたくなって。
過ぎたあの日は
愛がすべてと信じてた
そして今ではこころ寒く
思い出だけを追いかける
愛の暮らしの数々が
よみがえっては消えてゆく
そして最後の言葉だけが
むなしく胸に響き渡る
やめなよ 未練な男は嫌いなはずじゃないか
あいつはあいつで生きてるさ
時の流れにすべて忘れ
二度とは帰らぬ
若い日の思い出は
白いレースの懐かしさに
そっと包んでおくものさ
いつかは消える そうさ消えるさ
君の淡い思い出など
そしていつかは微笑んで
会える時も来るだろう
だけど 君がすべてだった
君の愛が美しすぎた
若すぎたのさ この俺には
君を不幸にするだけで
今に思えば若い日の
抜け殻だけがここに生きて
過ぎたあの日はかえらない
過ぎたあの日は
Yesterday when I was young
気づくと妻も傍らで、私を見つめて聴き入っていた。
「そろそろお昼にしようか」私が言うと、妻は微笑み頷いた。
つづく
注:
・本作は実在の人物を参考にして作ったフィクションです。
・歌詞は布施明さんによる訳詞バージョンを引用しました(太字箇所)
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