人間は恵まれると獣になる

「あっ自分、嫌な奴になってる」

これが非モテからモテ側に変わって私が第1に思った事だった。非モテ時代は女性からDMが来ただけで喜び、女性からのDMでの質問にも熱心かつ詳細に答え、素性が分からなくても「肩書や容姿で人間を判断するのは良くない」と思い会う事を打診された際は無条件に会おうとしていた。それがTwitterで色々あり、女性からの性的なDMが日に数通来るようになると「この感じ、熱心に答えても結局は会わない感じやろうな」「肩書や容姿が分からない/明かさない人間に真摯に応える必要ある?」と思うようになってしまい、非モテ時代はあれほど「女性は外見(肩書や社会的地位含む)ではなく男性を中身で判断してくれ!」と思っていたのも関わらず、私もまず女性の中身を計る前に外見(肩書や社会的地位含む)で足切りするようになってしまった。この「中身を計る前に外見で足切りする」に関して、「沢山の人間を見なきゃいけないのだから仕方ない」などと正当化しようと思えば幾らでも出来るだろうが、それでも「嫌な感じ」なのは拭えないだろう。そして外見の足切りラインもDMが増える毎に厳しくなっていった。私は嫌な奴になってしまったと言えるだろう。

そしてモテに限らず、この傾向はあらゆるところで見られるように感じる。

よくTwitterでは「金持ちは気前がよくて性格も良い!貧乏人はケチで性格もダメ!」みたいなツィートがバズるが、単純にそれは「ハロー効果」ないし「公正世界信念」と呼ばれるバイアスである。本当に金持ちが気前良いなら租税回避地なんて存在しない。それにそもそも論で言えば、貧乏人が貧乏なのは金持ちが富を独占してるからである。また「金持ちは能力が高い」というのもハロー効果や公正世界信念といったバイアスによるものである。所得が能力の高低に比例するなら、コンビニ店員は新オペレーションが追加される毎に給料がアップするし、国家試験でも難関の司法試験を突破してなる弁護士は全員金持ちのはずだし高学歴で教養豊かで頭が良くてメタ認知能力に優れたTwitter民の皆さまは全員金持ちのはずだろう。結論から言えば、所得の高低は「どれだけ金が流れる場所の近くの椅子に座っているか?」が主因である。富の多寡は、その人間の能力や人格を保証しない。

それを裏付けるような研究として、社会心理学者ポール・ピフ(Paul Piff)によれば、1般の人々が持っている貧困層のイメージを調査すると「貧困層はルールを破りがちな傾向にある」とされるが、実際にロサンゼルスで「歩行者が横断歩道を渡ろうとする際に車を止めてくれるのは金持ちか貧乏人か?」を調べた結果、高級車の方が貧乏自動車よりも停止しない傾向があったという。

また金持ちと貧乏人 研究室に呼んで、全員に10ドル渡して「この10ドルは取っておいてもいいし もし望むなら一部を全く知らない誰かにあげてもいい」と言ったところ、年収が2万5千ドルの人や1万5千ドル以下の人間が見ず知らずの人に与えるお金は年収15万ドルや20万ドルの人間より44%多いという結果が出た。

このような数々の研究を踏まえてピフは「金持ちになると慈悲や道徳心が減る」と結論している。
https://www.ted.com/talks/paul_piff_does_money_make_you_mean

また「美人/イケメンは性格が良い!」みたいなツィートもよくバズるが、そもそも人間は「外見の評価によって中身の評価も引き摺られてしまう」という性質がある。美容整形を受けた男性が整形手術による顔の変化で、どのように知覚された性格が変化したかを評価するために、145人に手術前後の写真から性格特性を評価させたところ、全体として手術後の写真は術前の写真と比較して社会性や信頼性があり、好感度が高く魅力的だと評価された。(また想起バイアスを避けるために、同じ患者の術前と術後の写真は同じ調査に配置されなかった。
https://www.liebertpub.com/abs/doi/10.1001/jamafacial.2019.0463

更にマッチングアプリOkCupidは最初はユーザープロフィールにおいて、ユーザーのが性格と外見の両方で独立して将来のパートナーを評価するシステムを採用していたが、

時間が経つにつれて「見た目の評価=性格の評価やんけ。少なくともユーザーは完全にそう認識しているやん」という事が明らかになり取りやめになったという。

見事に人格評価=外見評価みたいになっている。
https://www.gwern.net/docs/psychology/okcupid/weexperimentonhumanbeings.html

要するに人間は「※ただしイケメン/美人なんかあり得ない!」と心の底から思いつつ、※ただしイケメン/美人に限るをやってしまうという事だ。助けてくれ。

そして極めつけは「身体的に魅力的な人間ほど世界公正信念を信じ込む」という研究だ。(以前から公正世界信念は社会的特権と強く相関する事が示唆されてはいた)世界公正信念とは「世界は正しく動いており、努力は必ず報われ、善は栄え悪は滅び、信賞必罰」という信念だ。当然ながら、これを恵まれてる人間が信じ込むと「我は正しいから恵まれている。何故、正しいと分かるかって?何故なら我は恵まれてるからだ」という意識が生まれ、また「彼等は誤っているから恵まれない。何故、彼らが誤ってると分かるかって?何故なら彼等は恵まれてないからだ」という意識が生まれる。当然ながら恵まれてる人間にとって、この信念は自分の正しさを裏付けるものであるので、それを否定するインセンティブはない。
https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/0033294118763172

つまり人間は恵まれると、自分の意に沿わない人間や道徳を無視する事が可能になってしまい、またそれを(客観的な正否は別として)正当化してしまい、周囲もハロー効果や公正世界信念で「恵まれてる人間は正しいに違いない!」と持ち上げてしまうということだ。しかし、これは当然の事である。誰だって嫌な事をやるのは嫌だし、自分に不利益になるような規範やルールに従うのは嫌だし、嫌いな人間を避けて好きな人間とだけ関わっていたいし、「自分は素晴らしい人間だ!」と思いたがる性質があるので、それが出来るようになったら当然やるというだけの話だ。むしろ、やらなくて済むのに自分の嫌な事をやり、従わなくて済むのに自分の不利益になるような規範やルールに従い、関わらなくて済むのに嫌いな人間と関わり、自分をいくらでも正当化出来るのに「自分は卑しい人間だ」と思う事は不合理の極みだろう。

そして恵まれてしまうと、それ自体が正しさの証明のように機能してしまうので自身に対する非難を全て「××に文句言う人間は嫉妬!ルサンチマンで認知が歪んでる!」で片付けられるようになるし、本人や周囲も心の底からそう思ってしまう。

しかしながら、恵まれない側が上記の言説を支持したり内面化しても良い事は皆無である。その為、恵まれない側はこうした言説に惑わされず、客観的事実を直視したうえで生き方を模索し、少しでも生き辛さを緩和していくべきではないだろうか?と愚考して、記事を終わる事とする。

追伸
発達障害や非モテや陰キャやコミュ障について書いた本が出るみたいです。よろしければ手に取って下さい。(この記事は本の内容抜き出しではないです)
https://www.amazon.co.jp/発達障害、生きてるだけで疲労困憊。-rei/dp/4040646029/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%A0%E3%81%91+%E7%96%B2%E5%8A%B4&qid=1590465705&sr=8-1

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