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いろいろ考えている。
いよいよ梅雨入りしてしまった…。
ということは 捕獲の時間が減るということでもあるのでした。
仔猫保護ラッシュの季節の終わりでもあるわけです。
張込みをする時間も当面はなくなると思うので時間は作れるようになるし あれこれ考えています。
今年の前半はいろいろな出来事があって いろいろな出会いもありました。
認知症になった柴犬の遺棄事件 ちょっと身体が不自由な仔猫 アライグマのリリース 町内会の地域猫の取り組み等々です。
その中で ひとつ共通のテーマに気づいたのですが それは 多様性と寛容性 ということです。
本当の意味での多様性に気づくには 寛容性が不可欠ということです。
前にも書いたかもしれませんが この世界は人間のためにあるわけでもなく 人間中心に出来てもいないわけです。
人間っていう種は 牙も毛皮も動物たちのような身体能力もない いってしまえば生態系の最下層に位置する生き物。
それを補ってきたのが 器用に動かせる手だったり 工夫できる知能 というだけの話です。
ただ これが人間を傲慢にしてきた最大の理由にもなったのかな というのが私感です。
人間中心の世の中を作り 自分たちが不快と感じる生き物は徹底排除する。
ましてや同種の人間同士であっても 優劣という序列を捨てきることもできないわけですね。
長引くコロナ禍やウクライナの有事なんかもあったりして 動物やら環境やらよりも むしろ 人間 について
考えることが多かった上半期でもありました。
環境を左右する 命があるものを お金になれば海外から導入して失敗すれば捨てる なんなら殺処分する。
宅地がないから 森をばんばん伐採していくし 観光資源としてヒグマやらを利用して距離感を間違えては駆除対象に仕立て上げる。お金のためなら後先を考えないのも 人間の浅ましさなのかと思ったりもします。
まあまあ そんな中で 共生 とか 多様性 とか 寛容性 だとか そんなことを改めて伝えていくことを考えています。
インディアンには様々な通過儀礼がありますが それは自己の成長のためにあります。
特殊な能力を得るためでもなく 自分を自分としていきるための経験です。
それが本当に意味を持つように 経験のあとには私たちでいうところの カウンセリングのようなことをします。
自分にとって その経験はどういうもので なんの意味を持ったのか? ということを整理していく作業です。
この時に カウンセラーの立場である長老は 完全ではない自分 を まずは認めること 許容できるようにガイドします。
ここがなければ人は自分以外の存在に対して 敬意を払えなくなるからですね。
この時に使われるのがアニマルメディスンでもあります。
この カウンセリングの作業を もっと知ってもらう必要がある時代なのかもしれんね…とも思っています。
ただ どういう方法がベストなのか?というところで アナログな頭は迷い続けているのですが
近日 整理して告知を出せそうです。
この カウンセリング というのは カウンセラーとして仕事をするとかではなくても セルフカウンセリングとして自分を整理する
自分のいる環境のなかの人間関係での摩擦を減らす 距離感を保つ そんなことにも役立つかと思います。
というとりとめのない報告でした。