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所有という概念がない自由

さて 毎日 思い出したことを書き残していますが 今日は所有という概念についてです。むかし インディアンには共有という概念はあっても 個人が何かを所有するという考えがありませんでした。これは自然にあるものは すべて 誰かのもの にはなり得ないし 誰か個人が作り出したものでもない。すべては この世界を作った神さまからのギフトという考えが根本にあったからです。なので 自分のもの という考え方が馴染まなかったのですね。

これは人間同士にも当てはまっていて 例えば恋人や夫婦という関係であっても 相手を自分が所有しているとか 自分だけが独占できるとは考えていませんでした。ここは現代のモラルというところとは重ならないことになりますが 例えば配偶者を早くに亡くした人に 自分のパートナーを交代で寄り添わせるということもあったそうです。ただ 人間なので嫉妬という感情がわかないわけではないので なぜ 今この人に異性の慰めが必要なのか?というところを ちゃんと理解できるように話して聞かせたそうです。

さて それはどんな話なのか?というと もし自分の大切な人を失ったら 自分ならどんな気持ちになるのか?というような 単純な話だったりします。こういう話を全員が共有しているので もし自分のパートナーを寄り添う役割で 悲しみに沈む人のもとに送り出したとしても けして そこで欲に溺れるだけの関係にはならない そういう純粋さもあったようですね。要は精神的な絆や慰め もしかしたら肉体的なものもあったかもしれないけれど それは喪失感を埋めるもの こころが安定するために必要な薬のようなもの という感覚だったとも考えられます。

こういう話に違和感を覚える方もいらっしゃると思いますが 人が人に触れること 体温を感じること これでしか埋められない空虚さというものも 実際には 誰もが持っているのではないのかな。きれいごとではなく性的に満たされたいとかでもなく ただ 生きているものの温もりだけが持っている 特別な安心感なのかもしれませんね。

白人たちが大陸にやってきて 土地を所有する という概念が持ち込まれました。インディアンにとって この大地は誰のものでもないのに?という理解しがたいものでした。彼らには契約という概念もなかったので 物を売り買いするとか それによって誰かが所有権を持つとか そういう理解がなかったわけです。彼らが文字を持つ必要がなかった理由のひとつに この契約や所有というものが 人と人の間に介在しなかったので必要なかった。書き残しておかなくても 約束はこころの中に留めておけば良いもの だったからなのでした。ウソをつかない理由も書き残さないので ひとつのウソが事実を捻じ曲げてしまう怖さを知っていたからです。書き残さない暮らしというのは それはそれで中々 現代では難しい側面もありますね。

私たちの時代に役に立つとしたら 所有 という概念を個々の欲の中で最小限に止めることがもしれません。契約する お金を払う そういったことでほとんどのものは手に入ります。ただ 契約してもお金を払っても手に入らないのは 人の信頼や人の手では作り出せないもの ということかもしれません。パパ活っていうのがコロナ禍で流行っているとも言いますが お金をもらって自分を売ることもできます。これは お互いの利害が一致している契約ですね。でも それでこころが満たされる 喪失感を埋められるかといえば そうではないかもしれません。逆に対価を払って受ける対人のサービス これには性風俗も含んで私は考えていますが 本当に相手が自分を求めてくれるお客さまに真摯に向き合ってくれるプロであれば 対価以上のものを得られるのも今の時代なのかもしれませんね。ある意味での分かち合いというのか 自分が持っている技術やホスピタリティーと お客さまが持っているお金というものを交換している 物々交換といえるのかもしれません。これに関しては どのスタンスでサービス提供を考えているのか その方によって違ってくるとは思いますので すべてに関して当てはまるとは思ってはいませんが…。

所有と契約はワンセットというようなお話でした。所有されるかどうか 契約に縛られるかどうかも 現代では個々のこころに委ねられているのかもしれませんね。



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