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祈るのは行動すること。
よく どんな修行をしたんですか? みたいなことを訊かれたりしました。別に修行なんかしてないし じじいの師匠も特に何かを教えるということもなく。ただ 自分の手で何もしない人は 何に対しても感謝の気持ちを持てないっていうのは身に沁みました。これは 目の前にあることを黙々とやるなかで 自分で気づくことで習ったわけではないんですよ。身体で感じて覚えることなんだろうと思っています。
イメージとしてなのか そういう風習の部族の方たちからの伝承なのか インディアンの人たちは祈る人たちだよねと言われることも多いです。確かに祈りはしますが 祈ったら自ら体現して見せること が原則でした。あくまでも私が身を置いていた中では とお断りしておきますが。
平和でありますようにって祈りを捧げているのに 周りの人たちに対して優しくなければ それはウソになるということです。まずは自分が争いの種を蒔くのを止める こういうふうに体現してこその祈りなわけです。あんまり自分のご利益を祈る人は見たことがないし 結局は利他の世界観です。でも誰かのために祈ることが当たり前になっていると いつかはどこかで自分のために祈ってくれる誰かもいるわけです。こうして祈りもひとつの輪になっているというのが 私が知っているインディアンの祈りです。
もうひとつは聖地って呼ばれる場所は各地にあるかと思います。もちろんアメリカ大陸は広いし。でも彼らにはパワースポットという概念はありませんでした。聖地は聖地なんです。何かのご利益を得る場所ではないし そこに行くことで自分が特別になるわけでもありません。自分自身のこころの世界に誰もが持っているのが 彼らのパワースポットの概念かなと思います。それがビジョンの世界です。外に求めなくても すべては自分の中に在るわけです。
外に求めるって 言い方を変えると欲しがるっていうことなんですよね。でも 所有の概念がないと欲しがらない。分けてもらうとは考えても 占有するとは考えないのです。そして特別も存在しないわけです。今の時代に彼らの聖地をパワースポットと呼んだりしていますが それは彼らが祈りを捧げるための場所だったり 自分の中の神さまやトーテムと語り合う場所だったり。ちょっと意味合いが違うようですね。
うちの隣は稲荷社ですが よく稲荷神は現世利益のための契約信仰とも云われますね。本当にそうなのかな?と いつも疑問に思います。すごく日本人的な考え方というのか すごく精神的に貧しい考え方だなと思ったり…。稲荷社は屋敷稲荷と呼ばれる形で敷地内に祀ったとしても神棚に祀ったとしても 自分が望んで御霊分けしてもらうわけですね。自分の家に神社を建てたのと同じです。粗末にして良い訳ではないですよね?井戸も同じです。どちらも粗末にすると祟るとか障ると云いますが 恩恵だけを受け取って いらなくなったらサヨウナラ。この考え方でいいことがある方が不思議ですね…。
祈りにしてもパワースポットにしても修行にしてもですが 特別ではない ということだけ書き残しておきたいと思います。修行なんて宗教的なことやスピリチュアルなことじゃなくて 毎日 家事を丁寧にするとか 赤ちゃんを育てるとか 自分の仕事に誠心誠意取り組むとか そんなことなんですよ。そこから気づくことがあれば充分だとも思います。特別 出家したいとかであるなら また別なのかもしれないですけど。