ジェンダーの捉え方のはなし
今の時代 様々なジェンダーの在り方が 取り上げられるようになりましたね。では むかしのインディアンの人たちは どうだったのか?それが今の何につながっているのか そんなことを少し書きたいと思います。
インディアンには単一で存在するものという考え方が あまりないように私は思いながら じじい師匠の話を聴いていました。例えば 善いと悪い はワンセットで 悪いがなければ何が善いのかわからない そんなことですね。
これはジェンダーについても同じで ひとりの人間の中には男も女も存在している。今でいうところの男性性 女性性というものです。そして そのどちらが自分の魂を示すものなのかは 肉体の性に左右されない と考えていました。例えば自分の魂も肉体も女性だけれど 女性が恋愛対象になる人もいるし それは男性も同じ。魂は女性だけど肉体は男性や その逆のパターンも当たり前にある。性別に無関係に 人 として誰かを愛して恋愛に発展することもある人もいる。これは自然なことだし むしろ多様な性の在り方を持っている人は 尊敬の対象でもありました。自分とは違う個性や特性として 人の愛し方ができるということでもあるし ひとりの人間の中にある両方の性を活かしながら生きられる人 という捉え方もされていました。男性性と女性性の両方を持って生まれてくるので 魂がどちらの性を選んで生きるのか どういうバランスが心地良いのかは個々に違うということです。
役割という点でいうなら 戦士は肉体も魂も男性性が強い者がなるもの とされてはいましたが 女性の肉体で魂が男性で生きている人は戦士として尊敬されてもいました。その逆もあります。女性性は産むものではなく育てるもの というのが基本の考え方です。なぜかというと 子どもを産まない男性にも女性性は存在するし すべての肉体が女性で産まれてきた人が子どもを産むわけではないから。ただ すべての人には 育てる というちからがありますよね。なので 男性が戦士よりも何かを誰かを育てることに向いている場合もあったわけです。それを弱虫だとか勇気がないとか そんな端的な見方をされることもありませんでした。自分の中の性差というのも人それぞれなので いちばんよく活かされれば それが何よりということです。
もう少し単純化して説明すると 男性性は能動的 行動力 女性性は受動的 包容力 というような感じになります。ひとりの人間は この両方を持っていてバランスを取りながら自分を生きている というのがインディアンのジェンダーの捉え方です。なので そもそもLGBTQというカテゴライズをする発想すらなかったといって差し支えないと思います。その人が その人である生き方をすること これが当たり前のことだったんですね。ジェンダーを決めなくていいし 決める必要もない 誰かにカテゴライズされる必要もなかったわけです。
今 女性は子どもを産むべきだ という言葉を聴きます。確かに肉体的には出産という大仕事は女性に委ねられていますね。子宮という子どもを育てる場所を 身体の中に持っているからです。誤解しないで欲しいのは 子どもを育てる場所が子宮というだけであって もともとは子どもは授かったもので 独りでは授かれないもの。そのいのちを育てる場所が子宮という考え方です。お腹の中で育てたいのちは いずれこの世界に誕生してきます。始まりはそこからなんです。この誕生したいのちを育てるのは くどくど説明してきた女性性です。なので 誰もが子育てに参加するのは当たり前だし 男性性を活かして生活の糧を得る活動をするのも当たり前ということなんです。こうしてひとつのコミュニティーが成り立っていました。
今の時代だともう少し考え方が複雑なようですね。男性の育児休暇がとかイクメンという言葉があったり。逆にシングルマザーで男性性も女性性もフル活用しながら頑張っている方もいますね。自分が子どもを産まなくても 甥っ子や姪っ子 周りにいる子どもの成長に関わる人もいますし 養子をもらう人もいます。産んだから親になるわけではなくて 育てて行くのが親。だから周りのおとなは みんな親代わりになるというのがインディアンのコミュニティーでもありました。今の日本では考えられない柔軟さというのか寛容さというのか…。今の日本は迷子に声をかけても 不審者として通報されたりもしますしね。笑い話にもならないオチですみません。
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