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世界は多様性でできている
最近 政治家がよく使うようになった 「多様性」。
少し前ならダイバーシティとか呼んでいたと思う。
人間社会を中心に考える多様性と この世界を構成している多様な生き物に対する多様性は 考え方としては別物なのだね と東京五輪で納得した。
まず人間社会における多様性というのは それぞれの存在意義を認めて受け入れて行こう 的な話と理解している。これにはセクシャルマイノリティーであったり 得意不得意というものを持ち寄って社会参加を促していくという 人間都合 人間社会の中の問題としての「多様性」という理解。
本来 この世界は多様性でできているわけです。微生物から大きな動物たち その土地にあった植生などで バランスを取って回っているわけです。
人間からみたら害獣 害虫であったとしても それも人間社会以外のところでは きちんとこの世界に生きる 「役割」を持っていて 何某かの役に立っていて 人間とは直接 関りを持ってはいないだけではないですか。
この世界で本来の意味の多様性が失われたとき いよいよ全てのバランスが崩れてしまい 世界は無機質なものになるそう。アメリカインディアンの伝承に在るメディスンホイールというのは この多様性によって世の中は回っているという意味も持っています。
現代社会ではセクシャルマイノリティーやフェミ問題なども 多様性という言葉と関連付けられて語られることが増えましたね。
そもそも 多様性は それぞれが持っているものを周囲が寛容出来なけれな成り立つ物ではないのです。
人の数だけセクシャリティーがあり カテゴライズすること自体が不寛容だと私は考えます。その人自身の自認を尊重しなければ 多様性なんてきれいごとにしかすぎないし すでに外来種が入ってきている自然界も どう共存していくか柔軟にならなければ 本来の多様性を認めよう なんて無理なわけですね。
多様性は平均値を求めるものではなく そこにいる人 そこにある命を そのまま受け入れられる寛容性がなければ成立しないものと考えます、
人間だけの多様性を論じるよりも 私たちが暮らす世界全体が 多様性で成り立っていることから 知って行かないと上っ面で軽いムーブメントで終わるでしょう。
本来の多様性を考えるとき カテゴライズするという考え方がある限り 本質には近づけないのではないのかな。
もう少し広い目で考えないと 本当にきれいごとで終わっちゃいますよ。