【Vol. 9】Feelings of Being Accepted
自分に努力や力が足りないのではない。
“feelings of being accepted and included in the discussion”
自分が特定のコミュニティに属していて、この感覚を得られるか否かが大切なのだと思う。
語学力や知識不足とかそういう話ではない。
今日わたしは、Girl Up EdinburghのBME (Black and Minority Ethnic)学生主催のイベントに参加してきた。
テーマは、
以下に添付したフライヤーにある通り、
‘Internalisation of Eurocentric Beauty Standards (和訳: 内面化された西洋中心的な美の基準)’ というものだ。
1学期までのわたしは、Feminist Society (通称: femsoc)のイベントにばかり参加していた。
それもごく単純な理由で。
部活紹介の時にfemsocの学生が生き生きとした表情かつ響き渡る声で”everyone should be feminist!”と叫び、性別かわらず目の前を通る学生たちに、(よくみんながPCに貼るような)femsocのシールを自信を持って配っていた。
わたしもあんな風にフェミニズムを提唱する自分に自信を持ちたいと思った。だから、その彼女がわたしの目には、すごく、すごく輝いて映った。
曲解により、「フェミニズム」という言葉自体にマイナスなイメージが付与されている場面を数多く目にする日本では、正直、胸を張って「わたしはフェミニズムを提唱する」とは言いにくい。
femsocでフェミニストである自分がふつうに受け入れられることが嬉しかったし、周囲の人たちも自らが自信を持ってフェミニズムを提唱していて、それも見ていて清々しくて、好きだった。
だから、予定が合う日はディスカッションのイベントにたくさん参加したし、そこで友だちも作った。そこで作った友だちもふつうに好きだ。今週末も一緒にパーティーに行く約束もしている。
けれど、femsocで密かに抱いていた自分の中で不確かだった違和感が、確かな違和感へと変わった瞬間があった。3ヶ月前くらいだったと思う。
以前、自身のYouTubeチャンネルで少し言及したことがあるが、femsocは、温かい人ももちろんいるけれど、かなりPWI (Predominantly White Institution)だ。つまり、かなり白人至上主義的なところがある。
だから、事実、「intersectional (交差的)な観点が重要である!」と口先では言ってはいるけれど、議論のコアはいつも白人至上主義だと、東アジアから来た一学生であるわたしは感じていた。
※intersectionality: 以下のYouTube動画の冒頭部分で、この言葉について具体例を交えて話しているので、馴染みのない方は、ぜひご覧ください。
不確かだった違和感が、確かな違和感へと変わった瞬間。それは、femsoc主催のBLM (Black Lives Matter)関連のイベントに参加した時。
そこでも、やはりそのイベントはWhiteの学生によって支配されていた。20人程いる一室の中に、Blackの学生は登壇者を除き、たったひとりだけ。アジアルーツのある学生は、いつも通りわたしだけだった。(アジアルーツの友人をイベントに誘っても、「参加したいけど自信がない」という理由で誘いを断られることが割と多い)
その中で行われるディスカッションも終始、Whiteの学生が支配していた。隣のグループで、Whiteの学生たちが生き生きと喋り倒し、Blackの学生が下を向いていたあの風景が脳裏に焼き付いている。
イベント終了後、誰とも挨拶を交わすことなく、どこか寂しそうな表情を見せて、会場を後にしたあの学生の後ろ姿を今でも鮮明に覚えている。
忘れられない。
これを書いている今、気が付いたけれど、その日から、わたしはfemsocのイベントに参加していない。口先だけ多様性を語る人間たちが、無意識的に排他的になる言動を今まで嫌になるほど見てきた。またそれをここでも見なくちゃいけないのかと、異なる他者が静かに傷付く姿を見て、自分自身も傷付いたんだと思う。
Girl Up EdinburghのBMEの学生が主体で行われた今日のイベントは、東アジアルーツはいつも通りわたしだけだったけれど、そこにいる学生の殆どがいわゆるwomen of colour (有色人種の女性たち)だった。すごく居心地が良かった。
自分も受け入れられているんだって感じた。
周りもそう。授業で見る表情とは違って、みんながみんな、指先から安心している様子が伝わってきた。
・comfortable
・confident
・affinity
・understood
・celebrated
・accepted
・empowered
・safe
ここだって思った。
わたしが自分の身を置きたい場所。
安心できる場所。
受け入れられているんだって思える場所。
人種や肌の色に関わるアクティヴィズムは地道で、終わりが見えなくて、現状の緩和に寄与しているのか分からなくなることが多い。
けれど、こういう一つひとつの小さくて温かい営みが、そこに集まったひとたちをエンパワーして、エンパワーされた人たちは自分なりにその温かい営みの輪を自分の内面と自分の外へと広げていくんだろうなと思った。
知り合いなんて誰もいない、未知の場所だけれど、飛び込んでみると、見栄を張らなくても自分を温かく迎え入れてくれる居場所がある。
そう思えるだけで、ひとは強くなれるんだと思う。
植民地時代の知見をもっと広げたいと思ったし、いつだって当事者の声にアクセスできる場所に自分の身を置きたいとも思った。周囲のサポートと自らの努力によって会得した知識が他でもない自分の身や自分の大切にしたいと思えるひとたちを守れる武器になるのなら、いつまでだって学び続けたい。
たとえそれが、傷みを知ることのない異なる他者に非生産的な営みであるとして嘲笑されたとしても、いつだってわたしは正しいと思うことを信じ続けたい、そんな風に強く思った夜だった。
忘れたくない大切な日は、日々の詩織として写真を撮るようにしている。
ライトアップされるMcEwan Hallと、零雨のなか、それを静かに反射するエディンバラの石畳みがすごく美しかった。
2022/2/8