秘剣〈宇宙ノ颶〉 #4
居合の稽古とは、一人で行うものだ。
仮想敵を明確にイメージして立ち回り、集中力と客観的な認識力を養う。
このときの仮想敵とは大抵の場合自分自身であり、居合は「記憶の中にいる過去の自分に、常に克つ」ことを旨とするのだ。
このことをしっかり念頭に置いていないと、単なる一人チャンバラごっこになってしまう。
そのためのイマジネーションを補強する目的で、組稽古をやることもある。
「ほらほら、踏み込みが浅いよ~?」
「くっ」
ぼくの打ち込みが空を裂き、唸りを上げる。
何度も、何度も。
そのたびに、カシュ、カシュ、と竹が擦れる音が、かすかにする。
幾筋も踊る竹刀の軌跡の向こうで、先輩の微笑が揺れている。
「体重移動と打ち込みのタイミングが乱れてるね。焦っちゃダメだよ、平常心平常心」
「ぐぐ……」
カシュ、カシュ、と得物が鳴る。
ぼくの攻撃を、彼女はすべて刀身を斜めに当てていなしているのだ。
斬撃が逸らされる角度は、わずかなものだ。だから慣性がほとんど殺されず、竹刀は先輩のすぐ横を抵抗もなく通り抜けてゆく。それに引っ張られて体勢が乱れ、次の一手が遅れる。その事実が彼女の対処を更に簡単なものにする。
まさに理想的な受け太刀だった。
こういうとき、実感する。
彼女は、天才なんだな、と。
同時に少々情けなくもある。
彼女がこの道場に来たのは、去年のことである。
つまり、一年と少々。
ただそれだけの期間で、幼稚園の頃から居合道をつづけてきたぼくを鮮やかに追い抜き、赤銀武葬鬼伝流の免許皆伝まであと一歩というところまで行ってしまった。
才人の背中を見送る凡夫の心境は、せつない。
でも、あまり嫉妬めいた生々しさはない。どちらかというと、今にも孵りそうな卵を見るような、美しく磨かれてゆく原石を見るような、そんな感覚。
――そう、彼女は美しい。
大きな才能を持って生まれ、しかしそれに安住することなく研磨をつづける人間の姿は、例外なく美しい。
だからぼくはきっと、そんな彼女の姿を見ていたいんだと思う。
これからも、ずっと。
「ほらっ、集中が途切れてるよっ」
――ベヂッ
熱いんだか痛いんだかよくわからない衝撃が、額で弾ける。
「くぉぉ……ッ」
額を押さえてうずくまる。
「なんか別のこと考えてたでしょう、打ち込みに意志が乗ってないぞっ」
ビキビキと頭蓋の中に染み込んでくる痛みが、ぼくは少しうれしかった。
――そう、優れた打ち込みには、精神的な何かが宿る。
使い手の魂、そのひとかけらが、得物に乗って対手へ流れ込むのだ。
いま、ぼくの意識を痺れさせているこの痛みもまた、霧散リツカという女性を象徴するかのように、鮮烈で、透明だ。
「フッ……痛みすらも美しい」
「なに言ってるの?」
わかりません。
「ア~」がたがた。
「わっ、師匠の時間だった!」
●
その日の敵手は複数のようだった。
抜き身の刀を構えた男たちは、すでにツネ婆ちゃんの周りをぐるりと取り囲んでいる。
囲まれる当人は、刀に手をかけた状態でややうつむき加減にたたずんでいた。
はっきり言って、失敗である。
それも致命的な失敗だ。
一流であるなら、「囲まれたときどうするか」ではなく、「囲まれないためにどうするか」の術理を極めるべきではないのか。
暴力の民主主義は厳然とした力を持っており、大人数の敵を同時に相手しなくてはならない状況を許した時点で、その剣客は半分以上敗北している。ましてや包囲されるなど、どんな殺され方で死んでも文句の言えない失態だ。重要なのは戦術ではなく、戦略。
……と、赤銀道場師範、教士五段受有者であるところの我が父・赤銀ザキラなら言うだろう。
ぼくはそんな修羅場など経験したことがないのでわからないが、この言は正しいように思える。
しかし、今、婆ちゃんはその禁を破り、悠々と抜刀に構えていた。
気圧が、急増する。
水中にいるかのような圧迫感が、小柄な老婆の体から放射される。誇張抜きで、婆ちゃんが大きく見える。断じて気のせいではない。
その骨ばった親指が鍔を押し、鯉口を切った。
即座に男たちが反応。一斉に殺到する。
次の瞬間、婆ちゃんの抜刀瞬撃が
――閃かない。
老剣士の姿が、消失していた。
跳んだか!
即座に道場の天上を見上げる。
いない。
どこだ!?
今度はすぐに気づいた。
下。
床にへばりつくように。
しゃがみ込むなどというレベルではなく。
何か、地面を高速で這う、名状しがたい生物のように。
手足を奇妙に折り畳んだ姿態でありながら、両手はしっかりと刀に添えられている。
転瞬、隻眼の矮躯が毒蛇のように跳び上がった。
――あとはもう、一瞬だった。
宙転からの抜き付けで一人。その回転を傾けて放つ袈裟で一人。勢いのまま、後方から迫る一人の喉へ柄頭を突き入れ、さらに旋回。身を折って咳き込む男の懐をすり抜けながら螺旋力の乗った斬撃で一人。そしていまだにえずいている一人を振り向きざまに仕留める。
一息で、四人。
婆ちゃんは素早く眼を転じた。あと一人いるようだ。逃げてゆく五人目を正面に捉えると――なんと刀を投じた。
縦回転する刃が男の延髄を正確に貫き、直後すり抜けて道場の壁に突き刺さった。
衝撃で、柄が震えている。