絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 #58
おもむろにハンモックを出て、シアラのもとへと向かう。
はっと息を呑む気配とともに、布団をひっかぶるかすかな音。
気づかれるのは問題ない。別にびっくりさせたいわけではないのだ。
枕元に立ち、見下ろす。シアラは頭頂だけを外に出し、顔は布団の中に隠れている。
アーカロトは無表情のまま、その頭を撫でた。滑らかな黒絹が、指先にまとわりつく。
布団の中で、シアラの嗚咽が鳴りを潜めていった。
「ぷはっ」
小さな淑女は顔を出す。大粒の瞳から雫が散る。
「アーカロトさま……もうしわけないのですわ」
「いいよ」
さらに撫でてやると、へにゃり、と笑顔になる。
「えへへ……」
「おじいさんのことは、忘れてはいけない。どんなに辛くても」
目が見開かれる。
「いつか必ず、温かい思い出として、力に変えられる日がくる。だから、どんなに胸が痛くても、おじいさんとの思い出までなかったことにしてはいけない」
――アーカロト。かわいいかわいいわたしの子。
ノイズのように走るその声を、努めて無視する。
「アーカロトさまも、たいせつなかたを、なくされたんですの?」
無垢なその問いに、一瞬呼吸が止まる。
微笑んで、頭を撫で続ける。
「喪うことも、できなかったよ」
――どうしておまえは生きているの?
「まあ」
シアラはぱっと顔を明るくする。
「いきておられるのですわね?」
「いや……ううん、まぁ、会おうと思えば会える、かな……」
――私は死んでしまったのに。私は死んでしまったのに。
――私は死んでしまったのに。私は死んでしまったのに。
出会ったときにはもう、現実感に飢える亡者と化していたその女。
家族などいない。いたこともない。
「まぁ、そんなことはいいんだ。きっと明日も忙しくなる。もう寝たほうがいい」
すると、シアラはアーカロトの手を引き、自らの頬に押し当てた。
「ねむくなるまで、こうしててほしいですわ」
「いいよ」
ほわほわしたほっぺたを指先で弄びながら、アーカロトは目を細めた。
●
正確に言えばその女は、アーカロトを育てたわけでもなければ産んだわけでもない。
ただ卵子を提供しただけだ。
しかし、アーカロトがその女を母親と認識しないのは別の理由による。
――あるいは僕は、彼女を憐れむべきなのかもしれない。
ヴァーライドの担う第一大罪に召され、肉体的欲求はそのままに現実感を喪失した彼女は、もちろん憐れむべき死者の一人なのだろう。
「だから許されるのか。辛い目に合ったら、他の人間を辛い目にあわせていいのか」
第二大罪の担い手。罪業変換機関の創造主。月の無慈悲な夜の女王。亡者たちの太母。人類史上空前絶後の虐殺者。
――母はおなかがすいたの。とてもとてもすいたのよ。
――だから、なぁ、おまえたち。
――ひとつ、喰われてくれないか?
生前の彼女が、本当はどのような人物だったのか、今となっては知る由もない。だが――
第一大罪の外殻に存在する〈無限蛇〉システムから続々と吐き出されてきたそれ。
それを目の当たりにしたとき、アーカロトは自分に母親などいないということを実感した。
贖罪神機。
罪業変換機関のプロトタイプとなった、肉と機械の融合物たち。
小説が面白ければフォロー頂けるとウレシイです。