絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 #26
途中で見かけた水道で口を濯いでやり、ドレスも濡らした布巾で拭ってやる。
「ごめん。ごめんね。びっくりしたよね。僕が悪かった。ごめんよ」
「ひっく……ひっく……」
肥えた〈原罪兵〉の死体を極力シアラの視界に入れないように自分の立ち位置を調節しながら、アーカロトはシアラをあやした。
小さな淑女は、声もなくうなずいて、手を引かれるままアーカロトについていく。
「僕が嫌いになった?」
ふるふるふる。
「僕が怖い?」
ふるふるふる。
泣く、という行いには、どうしても「他者への抗議」という要素が混じってしまう。不平や異議を申し立てるために、子供たちは泣くのだ。
だが――この涙は違うのか。
「太った人が、かわいそう?」
……こくん。
現実に何か影響を与えるためではない、純粋色の涙。それを流せる人間が、果たしてどれだけいることだろう。
「……僕は、自分や庇護対象を守るために人を殺さなければならない時、躊躇うつもりはない。神ならざるこの身に、すべての命を拾うことなど到底できないからだ。これは、わかるね?」
こくこく。
「……そのうえで、僕の今の任務は「誰も泣かない世界の実現」だ」
シアラが、泣き腫らした顔を上げた。
「だから、君の涙も止める義務が、僕にはある。何か、ないかい? 君の涙を止めるために、僕ができること」
大きく丸い瞳を瞬かせ、シアラはこちらを見つめてくる。琥珀色の深い瞳孔が、無限の奥行きを湛えてアーカロトを精査する。
やがて、口をきゅっと引き結び、頭を下げた。
濡れ羽色の黒髪と、その中心のつむじが、アーカロトに向けられる。
「……?」
下げられた頭がもどかしそうに揺れた。
アーカロトは片眉だけ上げながら頭をかき、息をつく。
そしておもむろに突き出されてくるシアラの頭に手のひらを当てる。力加減がよくわからなかったので、触れるか触れないかぐらいのタッチで頭を撫でた。
それが不満だったのか、さらにぐいぐい頭を突き出してくるので、犬猫にでもするようにわしゃわしゃと力を込めて黒髪をもみくちゃにする。滑らかなセミロングが、指先にまとわりつく。
ようやく満足したのか、シアラは頭を上げ、目を拭う。
そして、両頬を押さえながら、へにゃりと笑顔。乱れた髪も合わさって、脱力しそうな風体である。
「なでなでされるの、だいすきなのですわ」
「……そう……」
理解不能な生き物を見るような目になってしまうのを、アーカロトはどうにかこらえた。他者に不用意に頭部を自由にさせるなど、危機管理がなってないとしか思えない。
「えへへ、ありがとうですわ、アーカロトさま」
そして当然のようにこちらの頭に手を伸ばそうとするのを、アーカロトは思わず身を引いてかわした。
途端にしゅん、と眉尻が下がる。
また泣かれてはたまらないので、忸怩たる思いをこらえながら、アーカロトは頭を差し出した。
灰色の髪が梳られるたびに、眉がぴくぴくと跳ねる。屈辱だ。頭を撫でるという行いには相手に対する敬意というものが微塵も感じられない。
だが――まぁ甘受しようではないか。これも任務。任務である。
――育児とは、大変なのだな。
【続く】
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