吐血潮流 #19
そのはずであった。
頬に、掌の感触があった。まるで触れられた部分だけが実体化したかのように、赤く染まった感覚の中で、そのことを認識した。
少しひんやりとしていて、やわらかい。
心を落ち着かせる肌触り。
掌は、まるでいたわるように射美の頬を撫でている。
「………、………。…………、…………」
どこかで、声が聞こえた。
短いフレーズを繰り返しているようだった。
やがて、掌から涼しく清澄な波紋が浸透してゆくように、射美は徐々に身体感覚を取り戻していった。
――頬から頭部全体に。
そのとき射美は、自分の頭が誰かの膝の上に乗っていることに初めて気づいた。
――頭部から胴体に。
自分はいつの間にか移動されていたらしく、背中の感触は平たく滑らかなものに変わっていた。
――胴体から手足の先へ。
ディテールはさらに正確になる。腿や脹脛の感触から、自分が乗っているのは木製のベンチであることがわかる。
胸の狂おしく悶える空虚が、徐々に大人しくなってゆく。
満たされてゆく。
ゆっくりと。
「……大丈夫、大丈夫。怖くない、怖くない」
声が聞こえる。しっとりとした、ほのかに甘い声。
ゆっくりと眼を開く。
まず目に入ってきたのは、どこか神話的な曲線であった。視界の中央付近に存在するその優美な曲線を境に、右は〈漆黒の闇〉、左は〈陰影のある白〉と、世界がはっきり二分されている。
さらに眼を凝らすと、〈漆黒の闇〉とは夜の空であり、〈陰影のある白〉とは街灯に照らされる紳相高校の制服であることがわかってきた。
――あー……
そして、それらの境界線となっている、「荘厳な」とか「重厚な」とか「霊性に満ちた」とかいう神話的形容詞をつけたくなるような、たおやかな曲線の正体について思い当った射美は、ほぁー、と間の抜けた溜息をつく。
どうも自分は、ベンチに座る人物に膝枕をしてもらっているようである。
「あら」
その神聖なる曲線の向こうから、まるで二つ連なる丘を越えて朝日が昇ってくるかのように、霧沙希藍浬の顔が現れた。顔の下半分はいまだに膨らみの向こうに隠れている。
――下から見ると余計におっきいでごわすなぁー……
地球という惑星のもたらす恵みの豊かさに、畏怖の念を抱く射美であった。
「おはよう。鋼原さん」
「お、おはようでごわす……」
と、つい反射的に挨拶を交わしてしまうが、よくよく考えてみると状況が不明すぎる。
ここはどこで、今はいつで、自分はどうなったのか。
――自分は、どうなったのか。
「……っ!」
さっと顔が蒼くなり、自らの胸元を抑えつける。その際射美は正体不明の劣等感に襲われたが、なんのことなのかまったくわからないのでとりあえず気にしないことにした。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
再び、ひんやりやわらかい掌が、射美の頬を包み込んでスリスリ。
「うに……」
なんとなく、喉を撫でられる猫の気分。別に苦しくもないのに身をよじりたくなってくるので、なんだか気恥しい。
「むっ、目覚めたのか」
静かな、しかしよく通る声がした。
●
……あの時。
篤の渾身の一撃は、射美のバス停を叩き折り、彼女を数十メートル吹っ飛ばした。
だが、頭にコブでも作りながら「いったーいでごわすー!」とか叫びつつ跳ね起きるかと思いきや、何やら尋常ではない様子で脂汗を流しつつ苦悶の呻きを上げ始めたため、
「殺めてしまった……死のう」
「切り替え早すぎだろアホ!」
攻牙に蹴り飛ばされてグランドに倒れ伏す。
篤としては、死力を尽くした戦いの果てに生き死にの分かれ目があるのは、致し方のないことだと考えている。だが同時に、敵手の死を望むなら自らの死をもって当たるのが当然であるとも思う。
大事なのは、いかにして調和を回復するかということだ。
そして、篤の見たところ、彼女の命脈はすでに尽きているように思われた。断続的な痙攣が彼女を襲い、その血色は見る間に悪くなってゆく。遠からず、命の炎は消える。
「くっそこりゃ救急車か!?」
攻牙は急いた手つきでスマホを取り出した。
――いや、そうではないな。
級友の様子を見ながら、篤は自らの怠惰を恥じる。あきらめるべきではない。たとえどんな状態であろうと。
見たところ、心肺機能に異常があるようだが、この場合の応急手当は――
「待って。わたしに見せてもらえる?」
涼しげな声。藍浬が目を覚ましていたようだ。
「うむ、この場合、心マッサージか人工呼吸か、もしくは足元を高くして寝かせるだけでよかったのか、適切な対処はいずれであっただろうか?」
無駄な問答は極力減らして問いかける。
「ううん、これは違うの」
……?
藍浬は、死の痙攣を続ける射美のそばに膝をつき、両手で頬を包み込んだ。
途端に、射美の表情がやや和らぐ。
「おお……」
依然として死の淵にはあったが、一歩だけそこから遠ざかっている。
「攻牙くん、救急車は呼ばなくていいわ」