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ケイネス先生の聖杯戦争 第四十七局面
アイリスフィール・フォン・アインツベルンは、何の痛みも衝撃もなく森の結界にぬるりと穴が開けられた事実をどうにか感じ取った。
眠っていたら間違いなく気付かなかったし、何か別のことに集中していても危なかっただろう。
相手が結界の警報を作動させることなくこの領土に踏み入ってきた。
それだけで、敵の力量に最大の警戒を払うべき事態であることは明らかだった。
「――切嗣、お客様だわ」
「結界が破られたのかい?」
「いいえ、とても丁寧に狭間を縫って入ってきているわ。危うく見過ごすところだった」
「マスターの中でそんな芸当ができるのは遠坂時臣とケイネスだけ。遠坂は穴熊を決め込んでいるから、十中八九ケイネスだろう。舞弥が発つ前で幸いだった。今なら総出で迎撃できる。――アイリ、遠見の水晶球を用意してくれ」
ついさっきまで顔を抑えて泣き言を言い、「何もかも捨てて一緒に逃げよう」と訴えてきた夫の顔は、すでに冷徹な傭兵のそれに戻っていた。
その切り替えの早さが、あまりにも哀しい。
瞬間――
全身の魔術回路に、熱と疼痛が走る。監視結界からのフィードバックだ。
「切嗣、待って」
振り返ったその双眸に、愛深く繊細な人間としての温もりはすでにない。
「もう一組。こちらは力任せに結界を破壊して来ているわ」
●
「昨夜の約定通り、ジル・ド・レェ罷り越してございます」
あざといほどに慇懃な仕草で腕を巡らし一礼。
キャスターたる〈青髭公ジル・ド・レェ〉は胸も張り裂けんほどの興奮と歓喜に酔い痴れながら、長々と口上を述べる。
崇敬し、恋焦がれた麗しの聖処女ジャンヌ・ダルク。当世風のスーツ姿で街を闊歩していた彼女の姿を捉えた瞬間から、ジル・ド・レェの魂はすでに至福の桃源郷にあった。
――おぉジャンヌ。幾年の冬を越え、再びこうして巡り合えたこの奇跡。我が願望の成就でなくてなんだと言うのか。
「これら無垢なる供物はあなたの魂を傲岸なる神の手より取り戻す呼び水でございますゆえ――」
背後を振り仰ぎ、そこに多数の子供たちがいることを示す。いずれも幼く、最も年長の子でも小学生ほど。ことごとく生気のない目をしている。
ジルが指を鳴らすと、魔術による催眠が解け、全員意識を取り戻した。
不安げに周囲を見渡し、中には泣き出す子供もいる。
そんな彼らにジルは聖者のように温かく親しみを込めた笑顔を向けた。
「さぁさぁ坊やたち、鬼ごっこを始めますよ。ルールは簡単。この私から逃げ切ればいいのです。さもなくば――」
するりと手を差し伸ばし、子供の一人の頭に乗せる。
次の瞬間、生卵を握り潰すように頭蓋骨が砕け、鮮血と脳皮質が飛び散った。
「悪い悪ぅ~い魔法使いにとって食われてしまいますからねェ。さァお逃げなさい。百を数えたら追いかけはじめますよォ。その悲鳴と絶叫をもって神の無謬性を否定するのです。さァさァ――!」
幼子たちは泣き叫び、散り散りに逃げてゆく。
凄惨な余興が、始まろうとしていた。
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