吐血潮流 #3
篤は教室の扉に手をかけた。
ここまで一気に駆け抜けてきた。しかし呼吸は乱れていない。むしろ軽い運動をこなしたことでウォーミングアップの手間がはぶけたくらいだ。
――この扉の向こうに、書状の送り主がいる。
この空気。張りつめた気配。
間違いなく教室に誰かがいる。
そして俺を待っている。
「……今征くぞ、我が雄敵よ」
力を込めて。
万感を込めて。
――一気に扉を引く。
「ひゃおうっ!?」
変な悲鳴とともに、机と椅子がこんがらがって倒れる音がした。
見ると、紳相高校の制服に身を包んだ少女が椅子に座ったままひっくり返っている。
ふわふわしたボブカットの髪が床に散らばった。
スカートがまくれあがって露になった太ももを気にする様子もなく、彼女はこっちを指差して、口をぱくぱくさせはじめた。
「す、す、すわ、すわ……ッ!」
「さよう。書状に従いまかり越した」
篤は重々しく頷き、堂々と前進する。
そして倒れた少女のすぐそばで立ち止まった。
「立てるか?」
「あ、は、はいっ」
少女はがたがたと音を立てて机をどかし、一瞬足を曲げて飛び起きた。
「よっと!」
バンザイ状態で元気よく着地。しかし倒れた時に打ったのか、頭をさすりはじめる。
「うーん、痛いでごわす……」
ごわ……す……?
今こいつ「ごわす」って言った……?
それは何かひどく意識を混乱させる三文字であった。
ちゃんこはそんなに好きじゃない。
――いやいやいやいや、あり得ん。あり得んことだ。
懊悩する篤に対して、少女はクルリと振り返った。
「はじめまして、諏訪原センパイ♪」
活発そうな印象を受ける少女だった。さっぱりとしていて天真爛漫、悪くいえば物事を深く考えなさそうな雰囲気。しかし、人にそういう印象を与えることを自覚して、それを利用しようとするしたたかさも、茶色の眼からかすかに覗いている。
いわゆる営業スマイル。
攻牙ほどではないが、子供っぽい容姿だ。篤の顎のあたりに頭のてっぺんがくるのだから、女性としても小柄なほうと言っていいだろう。染めているのか、単に色素が薄いだけなのか、茶色っぽい髪をショートボブにまとめていた。はしっこい輝きに満ちた目で、篤を面白そうに見つめている。
「一年五組出席番号十二番、鋼原射美でごわす♪」
「…………」
残念ながら聞き間違いではなかった。
なんということだろう。
ごわすってお前……
複雑な思いが篤の脳内を駆け巡ったが、一秒後にはその現実に適応した。
疑問形でしゃべる変態に比べたら遥かにマシである(文法的な意味で)。
「七月生まれの十五歳、血液型はB型でごわす♪」
「うむ」
「趣味は吐血、特技は吐血、嫌いなものは吐血でごわす♪」
「うむ。めずらしいな」
「いやそれ絶対おかしモガッ!」
「はいはい尾行中尾行中」
後ろで聞き覚えのある声がした。
謦司郎と攻牙が廊下から覗いているのだろう。なぜコソコソしているのかはわからない。堂々と見守っていればよいと思うのだが。
「いやー、まさかホントに来てもらえるなんてビックリでごわす! 射美がセンパイのカバンに入れておいた手紙、読んでもらえたんでごわすね?」
さすがに一人称は「おいどん」ではなかったようだ。
なんか裏切られたような気分になる篤だったが、そんなことはさておき。
「うむ。清廉な決意の感じられる、良い果たし状であった」
「えへへ、ありがとうでごわす♪ ……って、果たし状?」
「因果を含めてほしい」
「へ?」
「俺を見て、降り積もった思いがあろう。始める前に、それらを明確にしておいてほしい。受け止めよう」
篤は腕を組み、教室の扉に背をあずけた。
軽く首をかしげ、鋼原射美の発言をうながす。
「えーと、つまり本題に入ろうってことでごわすね? ふっふっふ、言うでごわすよ? 言っちゃうでごわすよ?」
鋼原射美はコホン、と軽く咳払いした。
そして大きく息を吸い込み、
「諏訪原センパイ、好きでごわす!」
「ふむ」
「廊下ですれ違ったときとか、ガッコの行きしに見かけたときとか、いいなぁってずっと思ってたんでごわす!」
「ほう」
「間違うとすぐセップクしちゃうあたり、なんかほっとけないカンジでごわす! 責任感ありそうなあたりもポイント高しでごわす♪」
「ほほう」
「おねがいでごわす! 付き合ってください! そして一緒にバカップル化して周りの人たちからウザがられちゃうといいでごわす♪」
「……なるほど、話は大体わかった」
篤は重々しく頷いた。
彼女の決意に応えるべく、腕を解き、半身になる。
戦闘、態勢。
「――いざ、参られよ」
「ゼンゼンわかってないーっ!? え? っていうか、あれ? なんでこれから宿命の闘いが始まるような流れになっちゃってるんでごわすか!?」
目を白黒させる鋼原射美。
「宿命か……言い得て妙だな。俺もその言葉に見合う礼節を尽くさねばならぬようだ」
――思い返せば、俺の応対はあまりに簡潔にすぎた。
迷いは忌むべき停滞なれど、反省は惜しむべきではない。
「丁重な名乗り、痛み入る。――返礼いたそう!」
「うぅっ!?」
篤は息を吸い込んだ。
まるで、巨大な怪物が顎門を開く時のような雰囲気が、あたりに満ちた。
理が、ぐるりと裏返る。
この世を形成する、二つの要素――すなわち陰と陽が、逆転する。
「二年三組出席番号十番、諏訪原篤! 夜長月生まれの齢十六! 血液型は弱酸性!」
「お肌に優しそう!?」
「趣味は切腹、特技は切腹、嫌いなものは切腹だ!」
「切腹嫌いだったんでごわすか!?」
「好きな本は『葉隠』、好きな言葉は『常住死身』、好きな山本常朝は『湛然和尚より慈悲と寛容の心を学びしのちの一皮むけた常朝』である!」
「もうダメだ! 射美はいきなりセンパイのことがわからなくなったでごわす! でもそんなセンパイもミステリアスでステキでごわす……っ♪」
祈るように両手を組んで、目をキラキラさせている。
ガゴン! と後ろで扉が音をたてた。
廊下の二人が、なにやら騒いでいるようだった。