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ケイネス先生の聖杯戦争 第十五局面
――無意味なことをしようとしているし、自分はきっと犬死する。
間桐雁夜は痙攣する己が手指を眺めながら、冷静に自分の状況を確認した。
血の気が引き、いたるところに瘢痕の浮き出た手の甲。それは手だけに限らず全身が同じ惨状だった。
我が身に巣食う刻印虫は、数だけで言えばそれなりの格の魔術回路として機能するだろう。だが肝心の雁夜自身に魔術戦闘の心得などない。
桜や臓硯の前では気を張って毅然とした顔をしていたが、いざ一人になれば自分のやろうとしていることの無謀さに笑ってしまいそうになる。
相手は「あの」遠坂時臣だぞ?
魔術を唾棄し、一般人と同じ暮らしを送ってきたことに後悔は一切ない。だが、培った経験の差はことここに至って残酷だった。もはや時臣という男への憎悪で立っていると言ってもいい雁夜にとり、現状はあまりに暗い。
「……それでも、止まるわけにはいかない」
すべてを覚悟したうえで、雁夜は聖杯戦争という場に立っているのだ。聖杯を獲る。そして間桐桜を救う。人生の最期を飾る目的としては悪くない。自分のような凡人にはいささかヒロイックすぎるくらいだ。
だが、自分に酔うことが、ほんのわずかでも前に進む力になるのなら。寸毫でも桜を解放する可能性に資するならば。
「いくらだって酔ってやるさ」
指を、握りしめる。青黒い静脈が浮き出る。
――だが、やはり間桐雁夜は視野が狭窄していた。
敵が遠坂時臣一人であるなどと誰も言っていないのに。時臣以外の誰も、自分の命を狙ってこないなどという荒唐無稽な楽観を、無意識下とはいえ信じてしまっていた。
頭ではわかっていても、どこか現実感のない危惧だった。
根本的に魔術師でもなければ戦闘者でもないがため――そして何より、間断なく肉体を刻印虫に食い散らかされる苦痛が、彼から当たり前の思考を奪っていた。
ついさきほど下水道を走り抜けた魔力の波が何を意味しているのか気づくことができず、
こつ、こつと乾いた音を立てて近づいてくる足音が何を運んでくるのか、一瞬想像が遅れ、
ゆえに、戦闘用の蟲どもにあらかじめ包囲殲滅を期せる位置についておくよう指示を出すこともできなかった。間桐雁夜はどこまでも良識的な一般人であり、自分と何の因縁もない人間を殺すという思考を即座に働かせる才覚などなかった。
「――バーサーカーのマスター、間桐雁夜とお見受けする」
下水道にはまったく似つかわしくない、高貴な気品と威風を湛えた男が、悠然とこちらに歩み寄ってきていた。
そこに至ってようやく雁夜は目の前の男が自分の命を狙っており、自分もまた相手を殺さなければならない立場であるということを理解した。
「……ッ! 来いッ! バーサーカー!!」
本能的な畏怖を呼び覚ます絶叫が轟き渡り、雁夜の前に闇色の全身甲冑を纏った暴威と狂乱の化身が実体化した。獣のような低姿勢で、ねめつけるように相手を睥睨する。
「ランサー。返礼してやれ」
『御意に』
敵の前にも、魔力の揺らぎと共に、しなやかな長身を青き戦装束で包んだ優男が姿を現わした。朱槍と黄槍を携え、右の目元を刺々しい装身具で飾っている。雁夜にもわかるほどの清澄なる闘気。
とっさに敵の能力値を確認する。
右の口端が笑みに歪み、左の口端が不気味に痙攣した。
――大丈夫だ。勝てる。ランスロットの方が明らかに強い!
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