かいぶつのうまれたひ #6
バス停使いたちによって「界面下」と名づけられたこの空間は、通常の世界とは少しずれた位相に存在し、基本的に交わることはない。そこでは、すべてのバス停がエネルギーの波となって溶け合い、あらゆる場所に遍在している。熱と光のコーラスを奏でている。
物質世界に存在するバス停などは、この奔放な本質のごく一部の側面が現出しているに過ぎないのだ。
だが、篤はこの雄大な無秩序をゆっくり鑑賞する暇などなかった。
体が、動かない。
界面下空間の外で、右腕を掴まれ、左腕を捩じ上げられている。
「虚停流外殺――」
くぐもった声が、かすかに聞こえてくる。タグトゥマダークの声が、その振動が、篤の体を伝って耳まで届いたのだ。
「――〈次元断頭〉」
何をするつもりなのかは、なんとなく、わかった。
恐らくは――次元の出入り口を何らかの方法で閉じるつもりなのだ。
二つの世界に分かたれた頭と体は、これ以上ないほどきれいな断面を残して切断されることだろう。
篤は、敵の冷徹な戦闘感覚に皮膚を粟立たせた。
――恐るべき、技だ。
しかも技名を言い終わったということは、もうこの瞬間にでも界面は閉じられるということだ。
――実に、恐るべき、技だ。
それが不可能であるという点を除けば、である。
「――前』!」
篤は、叫んだ。それだけを聞いたらまるきり意味不明の言葉を。
瞬間、周囲の光彩が篤のそばへと集まり、収束し、バス停『姫川病院前』を形作った。
ただし、それは篤の手元にではない。
足元に出現したのだ。
腕を捩じられ、無理やり界面下へ顔を突っ込まされると同時に、篤は自分の足元にも異空間への出入り口を開いていたのだ。
左足を界面下へ突き入れ、出現した『姫川病院前』に引っ掛けると、前方に思い切り蹴り飛ばした。
物質界に吹っ飛ばされたバス停は、篤の体を天秤のように支えていた右足に当たって回転する運動を与えられ、タグトゥマダークの足元を薙ぎ払った。
「おっと」
篤の両腕に絡み付いていた拘束が解ける。
即座に頭と右手を界面下から引き抜き、敵へと向き直った。
タグトゥマダークは不審そうな顔でそこに立っていた。やや離れた間合いだ。
とっさにバック宙返りを決めて、足元への攻撃は回避したようだ。呆れた反射神経である。
「妙だね……どう考えても君の召喚文句が終わる前に、僕の〈次元断頭〉は完成していたはずだ」
「注意力の問題だな。解説などする気はない」
篤は足元の『姫川病院前』を蹴り上げた。空中で掴み取り、構える。
「さぁ、貴君もバス停を抜かれよ」
「ふぅん……」
タグトゥマダークは、バス停を召喚するそぶりも見せず、しげしげと篤を見ている。
「めずらしい扱い方をするね、キミ。普通、バス停使いって想定外の逆境には弱かったりするものなんだけどな。なまじ強すぎるから、苦戦という経験が不足しがちなんだね」
「……何が言いたい?」
「キミはそうじゃないってことさ。両手が使えないから、じゃあ足で――って、言葉にすれば簡単だけどさ、普通そんなことをあの一瞬では思いつかないよ。お兄さん感心しちゃったなぁ」
自らの顎に手を当て、不敵な微笑を湛えながら、
「ちょっと、苦手なタイプかもしれないニャン」
「…………」
空気が、なんか、微妙な雰囲気になった。
「ニャ、ニャン!?」
タグトゥマダークは口に手を当ててあたふたしていた。
篤は興味深そうに、己の顎を掴んだ。
――今度は「ニャン」か……
「《ブレーズ・パスカルの使徒》には、珍妙な語尾でしゃべらなければならない掟でもあるのか?」
「か、か、勘違いしニャいでくれ! 僕はこんな語尾ニャんか……あああ! 付けたくニャいのに! 付けたくニャいのに付けてしまうニャンッ!」
タグトゥマダークは、ニット帽に包まれた頭を抱えて天を仰いだ。
「タグっち……そんな人だったでごわすか……」
後ろで射美が半眼になって呆れていた。
「ちょっと頭が不自由だけど、優しくてカッコイイ人だと思ってたのに……」
「あああっ! ち、違うニャン! これはおかしいニャン! 僕の意思とは無関係に語尾がついてしまうニャン! っていうかさり気に前半部分ひどいニャン!」
「あー中学の時こういう奴いたぜ。ワクチン打つと獣の紋章が浮かび上がって危険なパワーが目覚める的な設定で授業中によく『ぐぁ…っ! 静まれっ!』とか言い出すんだ」
攻牙が耳の穴をほじりながらどーでもよさそうに言った。
「いや接種はしたんかい! ってクラスの全員に突っ込まれてたぜ」
「設定とかじゃないニャン! マジで止まらないニャン! あと思春期の想像力をバカにする奴は心が貧しいとお兄さんは思うニャン!」
三人の、そして周囲の通行人の冷めた視線が、タグトゥマダークを追い立てた。
「うっ、ううっ」
その顔が引き歪む。
「うにゃあぁぁぁぁぁんッ!」
泣きながら走り去っていった。
ナイーヴにもほどがあった。
●
――どこまでも、まっすぐな眼をしていたな。
タグトゥマダークは、泣きながら朱鷺沢町を駆け抜ける。
――諏訪原篤。一切の迷いもない信念に寄り添う、この上なく安定した佇まい。
泣きながら、駆け抜ける。心はズタボロに揺れ動く。
だが、その根底には、鏡面のようにさざ波一つない場所がある。
タグトゥマダークは、そこで思考する。
――諏訪原篤。直接相対してはじめてわかる、その存在の堅牢さ。
冷酷に、思考する。泣きながら、思考する。
――死に囚われているがために成立しうる魂。
泣きべそをかき、同時に心の根底で嗤う。
――僕とおんなじだ。そして、僕とは全然違う。
大声で咽びつつ、泣き叫びつつ、必死に走りつつ、タグトゥマダークは嗤う。
魂で、嗤う。