絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 #44
世界を律する理が、歪み、軋み、悲鳴を上げた。
機動牢獄たちは、不意に虐殺の手を止め、辺りを見回す。
屋内だ。別段、辺りが陰ったわけではない。目に見える変化など今のところ何もない。
だが、極罪人たちは感じ取っていた。
計り知れない重圧感を。唯物論的世界には本来存在しないはずの、魂が感じ取る理不尽な恐怖を。秒刻みに強くなってゆく、心身を蝕む悪寒を。
何かが来る。恐ろしい何かが。
このままここにいてはならないことは分かり切っていたが、ではどこに逃げればいいのか。逃げ場などあるのか。
「な……にが……?」
一人がそう呻いた瞬間、酒場の天井が広範囲にわたって赤熱し、白熱し――融解した。
溶鉄が滝のように降り注ぎ、罪業ファンデルワールス装甲に張り付いた霜が一斉に気化して視界を奪う。
直後に轟音。何か恐ろしく巨大なモノが、酒場の床に降り立っている。白い蒸気越しに、異形のシルエットが徐々に浮かび上がってくる。
それは、失楽園と同時に滅んだ神代の生物――蜘蛛に似ていた。
あまりに長大な節足が八本、シャンデリアのごとく放射状に伸び、着地の衝撃を柔軟に吸収していた。
それらの中心に、なにかが浮かんでいた。
霧が晴れる。靄が晴れる。
押し殺された悲鳴が、機動牢獄たちから発せられる。あまりに既知の外にある存在に、適切なリアクションを返せないでいる。
ソレは――胎児に似ていた。
四肢のない胎児の周囲に、昆虫のような節足が存在しているのだ。透けるような蒼の装甲に包まれた頭部と思しき場所の中心に、縦に裂けた口、のようなものがあり、恐らく口吻であろうものがわずかに見え隠れしていた。頭頂部をぐるりと囲む位置から、幾本か青黒い触手が生え、その先端には何らかの感覚器官と思われる脂肪質の塊が実っている。頭部の後ろにある胴体部分は、芋虫のように節に分かれた構造を持ち、ひとつひとつの節に分離した装甲が張り付いていた。
そして――胎児は、浮遊していた。
その巨体を支えるものなどまったく見当たらない。周りにある八本の節足たちとは、物理的に分離している。にもかかわらず、それは空中のいち座標にしっかりと固定され、ぐらつく様子もない。そして、節足の動きと連動して動き、揺れ、向きを変えていた。何らかの超常的な原理で連結されているようだ。
有機物と無機物の、グロテスクなまでに緻密な融合体。
原初的な恐怖が、極罪人たちの背筋を貫いた。遺伝子に刻まれた警告。遥かな太古、俺たちはこの存在に滅ぼされかけた。
「あ……ヒ……」
《咎人よ/ゆえなく消ゆる/がぎろいよ》
老人と、子供と、男と女が同時に喋っているような声だった。
だが、空恐ろしいまでに感情の欠落した口調であった。
装甲が割れ、内部からサブアームが展開した。その先端には花の蕾めいた構造物が現れる。多肉植物のような質感の蕾が、粘液を引きながら花開き、黒い薔薇のような大輪の花を咲かせた。
瞬間、薔薇がヴン、と唸りを発し、濃い碧色の光の剣が伸びた。
その数、八振り。固体と見紛うような密度で、馬上槍のような形状を形作っている。白い人魂のようなものが無数に刀身の周囲を巡り、唸りとも苦悶ともつかない禍々しい絶叫を放っていた。
二つの関節を備えたサブアームが、揺らめきながらも光剣の切っ先を一斉に機動牢獄らに向ける。
《――絶罪、執行――》
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