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ケイネス先生の聖杯戦争 第二局面
ディルムッドは、その佇まいに思わず姿勢を正す。
己の生前において、貴族とはすなわち武人であった。エリンの諸王国をまとめ、秩序をもたらし、外敵に命を賭して立ち向かう。そのために求められる資質は第一に武勇であった。エリンの上王たるコルマク・マッカートや、フィオナ騎士団長フィン・マックールの権威を裏付けていたものは、血統や人格よりもまず戦士としての実力である。
――全ての者の心に真実があり、腕に勇猛があり、口にしたことは必ず実行した。
懐かしくも実直で、単純で、荒々しい世界。
だが今、ディルムッドの前に立つ男からは、そのような牧歌的とも言える理屈では計り知れぬものを感じた。
成人男性としては過不足ないが、さして鍛え上げているとも見えぬ痩身。フィオナ騎士団のどれほど下位の未熟者であろうと、腕の一振りで手もなく吹き飛ばしてしまえそうだ。
頭ではわかっているのだが、ディルムッドは自分がこの御仁に対してそのような狼藉を働くさまを、どうしてもリアルに想像することはできなかった。
その事実に驚嘆する。
所詮は年齢も実力も実績もディルムッドに及ばぬ相手である。英霊への敬意なき不埒者には、腕力にものを言わせて格の違いをわからせたところで何も問題はあるまい。実際に、マスターに対してそのような態度で臨むサーヴァントもいる。
だが、できなかった。
ディルムッドは初めて「貴族」という言葉の意味を思い知った。貴き血筋の者が下々を跪かせるのは、強靭だからではない。貴族はただ貴族であると言うだけで、何の理由もなく理不尽に服従を強いることができるのだ。
――お前の生は私が決める。お前はただ伏して従え。
そのような業。多数の民草の運命を胸三寸のうちに決定し、背負うという覚悟。武勇や器量によらぬ、純粋な貴族性。
人類史が支配統制のために編み出した覚悟のシステムに、嫌悪と讃嘆という矛盾した想いを抱く。
恐らく、ディルムッドの生前の戦友たちは、ほとんどがこの男の在り方を「退廃」と断じるであろう。実力の伴わぬ、張子の虎であると。それを否定する気はまったくないが、「根拠を必要としない権威」の有用性を無視しないわけにはいかないだろう。
それは侵されざる権威だ。
強さや、智謀や、人格を根拠とする権威とは、つまるところ実力主義だ。もし実力で臣下が主君を上回れば、容易く政変が起き、内乱が起き、流血を生む。そのような事例はありふれており、世は安定せず、民草はいつまでも苦しむことになる。だが権威に合理的根拠がないとなれば、もはや臣下がどれほど己を磨こうと、世を乱す恐れはなくなる。
ディルムッドの時代にはなかった考え方だ。
――自分は、どうやら運が良い。
誰でも良かったわけでは断じてないのだから。
己を召喚したマスターが、他者を支配する覚悟を持たぬ下々であったなら、ディルムッドは上位者として彼を庇護し、穏便に聖杯戦争から逃れられるよう手を尽してやるだけであったろう。
また、他者を虐げ殺すことに喜びを見出す外道であれば、そのような輩が口を開く前に己が魔槍にて相応しい誅罰を下し、憤然と座に還ったことであろう。
マスターはサーヴァントをある程度選別できるが、サーヴァントはマスターを選ぶことなどできない。
――ゆえに、自分は運が良い。
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