夏日陰の巣立ち #1
鋼原射美は、決断の岐路に立たされていた。
ボロ借家への道を、とぼとぼと歩きながら、眉尻は垂れ下がっていた。
もしもネコ耳が生えていたら、しゅんと力なく伏せられていることだろう。
――射美もケモノ耳ほしかったなぁ~……
なんて。
思考を関係ない方向に遊ばせてみるけれど。
「ふみ……」
胸がひくついて、喉が熱くなって。
やっぱりこらえきれなくなって。
「ふみぃ……っ」
やっぱりすごくショックで。
普段あんなに優しかったのにって思うと、ひたすらに悲しくて。
――ホントに、怒ってたんだなぁ。
「みいぃぃぃ~っ!」
涙が止まらない。
射美は、生まれた時からすでに《ブレーズ・パスカルの使徒》にいた。彼女の両親は組織の構成員だったようだが、一度も会わせてもらったことはない。
大人ばかりの組織で、最初に優しくしてくれたのがタグトゥマダークで。
だからこそ、甘えすぎていたのかもしれない。
無限の好意なんて、あるはずがないのに。
――射美はダメな子でごわす……
あぁ、だけど。
誰かにこの悲しみを聞いてほしかった。
無理して藍浬や篤や攻牙の前から逃げ出すべきではなかった。
自分は誰かに泣きつく資格なんかない、なんて。
変に格好つけて。
「ひっ……ひぅ……」
嗚咽をこらえるくらいしか、できないなんて。
「――どうして泣いているんだい? お嬢さん」
そう、こんな風に。
「君に泣き顔なんて似合わないよ、鋼原さん」
優しく話を聞いてくれる誰かがいれば。
「君に似合うのは、頬を赤らめながら唇を噛んで未知なる快楽と羞恥に耐え続ける表情だよ!!!!」
「ぎゃああ! ヘンタイさん!」
黒い風が吹き抜けた。
射美は恐怖に突き動かされ、全力ダッシュ。十メートルも進んだところで振り返った。
均整の取れた長身痩躯。わきわきとイヤらしく動く両手の指。ダークグリーンの前髪が、その眼を覆い隠しているが、口の端は吊り上っていた。
超高機動型変態、闇灯謦司郎。
いくらなんでも神出鬼没すぎる。
「はっはっは、君みたいなかわいい女の子に変態なんて言われると、僕のパトリシアが神に反逆しちゃうよ!」
何の隠喩だ。
「どっ、どっ、どどど、どうしてここに!?」
もう五分も歩けば、射美たちが隠れ住むボロ借家にたどり着いてしまうような場所である。それはつまり、謦司郎には隠れ家の位置がバレているということではないだろうか?
「ノンノン、そんなことはまったく重要じゃないさ」
背後から優雅なテノール。
「ひぃぃぃぃぃ!」
いつ移動したのか全然わからない。怖い。単純に怖い。自分が何をしようが彼の行動を止められないという恐怖。
「今重要なのは、鋼原さん、君が悲しんでいるってこと」
「……ひ……!?」
ふっと風が吹いて、射美の目尻に何かが触れた。
謦司郎の親指だ。溜まった涙を拭い去り、引っ込んでいく。
「あ……」
「君に言っておきたいことがあるんだ」
謦司郎は腰に手をあて、あさっての空を見上げた。そんな何気ない所作が、凄まじく絵になる奴だった。
「……ありがとう」
「え……?」
意味をつかみかねて謦司郎の顔を見やると、彼の頬は緩やかに綻んでいた。
「攻牙を助けてくれて、ね」
射美は眼を見開いた。
「君がいなかったら、攻牙は間違いなく真っ二つになっていたと思う。だから、ありがとう。本当に」
そして、決まりが悪そうに頭を掻いた。
「これでも親友って奴だからね。ふひひっ、本人はムキになって否定しそうだけど」
射美は、言葉が出なかった。
「だからね、お願いだ。自分の行いを、否定しないでほしい。君のしたことに感謝している人間が、ここに間違いなく一人いる。それに、篤やおっぱ……霧沙希さんも同じくらい感謝してると思う」
今なんて言いそうになった?
「あ……う……」
だけど、突っ込みの言葉は出て来ない。
胸の中で、熱い何かが詰まっていたから。
こみ上げてくるものがある。
それは熱を伴って、圧力を高めてゆく。
やがて、
「ウぐっ!?」
OK、久々だ。
「ごふぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
グラシャ! ラボラス!
深紅の! 奔流!
びちゃびちゃと道端に叩きつけられ、ホラーな領域を広げてゆく。
「けほっ……けほっ……」
身を折って咳き込む射美。
「あー……えっと……大丈夫かな……?」
「うぃ~、感極まってやっちゃったでごわすぅ~」
咳き込みながら、にひひと笑いはじめた。
なんとなく、この変態紳士をたじろかせたことに、愉快な思いを抱く。
「しまった……頭から浴びれば良かった……! あぁっ! 美少女の体液が! 体液が! 無駄に地面に染み込んでゆく!」
「…………」
そうでもなかった。
変態すぎる。
「あー、こほん」
気を取り直して。
「あの……ありがとうでごわす。ちょっと気が楽になったでごわす」
ぐしぐしと口をこすりながら、自然に笑みを浮かべることができた。
「おかげで、決心がついたでごわす♪」
変態紳士が、わずかに眼を見開いたような気がした。
「決心……そうか」
そう微笑んで、歩き出す。
すれ違いざま、射美の肩に手が置かれた。
「無理はしないで、命を大事にね」
「はい♪ ヘンタイさんは、実はいいヘンタイさんでごわすね♪」
「はっはっは、君みたいなかわいい女の子にそこまで言われたら、僕のパトリシアのみならずエリザベスまで凄いことになってしまうよ!!」
「えっ……それ何!? どゆことでごわすか!?」
別個のナニカらしい。