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ケイネス先生の聖杯戦争 第四十四局面
今までに会ってきた人の中で、最も舞弥を苦しめているのは、目の前のディルムッド・オディナなのである。
「苦しむことに、何の価値があると言うの。苦しむことが救いだとでも?」
「俺はかつての君のように、何も痛みを感じない生というものを経験したことはない。だから比較をしてどちらがより良いなどと言うことはできない。だが、人間として生き、苦しむのは、決して悪いことばかりではない。俺に断言できるのは、その程度だ」
舞弥は、視線を落とす。
ティーカップを取り、温かな紅茶をひと口含んだ。
「これを運んできた子は、きっと最初は慈しまれていたのでしょうね。そうして自分を大切にすることを教えられた。だけど途中から過酷な状況に放り込まれ、心が砕けてしまった。その傷はきっとあの子の一生を呪い続けるわ。私に、あの子と同じ道を歩めと?」
「頼む、舞弥。どうか人間を信じてくれ。あの子に苦悶を強いた外道は、すでに俺が相応しい誅罰を下した。きっと彼女の前途には、多くの人々が手を差し伸べてくれる。俺はそれを見届けることは叶わないが……君ならば可能なはずだ。せめてそれを見てから、判断を下してくれないか」
その時の、彼の縋りついてくるような目を、久宇舞弥は生涯に渡って忘れることはなかった。
まったく、人類史に威名を刻んだ益荒男が、まるで捨てられる仔犬のような顔をするのだから。
思わず笑ってしまいそうになる。
――泣かないで、かわいい人。
呪いのホクロによるものだとわかっていながら、優しい気持ちが胸から溢れてくるのをどうしても止められなかった。
思えば、そんな気持ちで切嗣に接したことが、今まであっただろうか。
ただ事務的に、殺戮機械の保守点検を行ってきただけではなかったか。
切嗣を裏切ることはできない。
しかし、切嗣に従うだけでは、切嗣を救うことはできない。切嗣の進む道の果てに、切嗣の救いなどないのだから。
弱くて脆い心を、絶対零度の鎧で覆ったあの人を、救いたいと舞弥は初めて強く思った。
「……条件が二つ、あるわ」
「聞こう」
「私は切嗣を決して裏切らない。だけど、あなたたち全員が切嗣を殺さないと約束してくれるのならば、セイバーを脱落させることに関しては手を貸してあげる」
ディルムッドは、目を見開く。
そして視線をわすかに上にあげる。
「……我が主の了承が取れた。それに関しては確約しよう。もちろん、雁夜どのも同様だ」
舞弥は頷く。
「条件の二つ目は――桜ちゃんと言ったわね、さっきの子」
「あぁ。間桐桜と言う」
「もう一度、会わせて頂戴」
「わかった。そんなことでいいなら。ただ、どうかな、幼子にはもう遅い時間だからな」
「寝顔を見せてくれるだけでいいわ」
「……そうか。では、行こう」
舞弥とディルムッドは立ち上がり、桜の部屋に向かった。
●
会話を聞いていたケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、暗く燃える双眸を開いた。
口の端に、あるかなしかの笑みを刻み、念話を発する。
《ディルムッド・オディナ。お前は私に忠誠を誓ったことを、必ず後悔するだろう》
それは、この男が初めて自分のサーヴァントの真名を呼んだ瞬間でもあった。
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