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ケイネス先生の聖杯戦争 第三十五局面
――「舞弥。それ以上近づかなくていい。流体礼装の射程外から警戒を続けろ」。
この言葉を聞いた瞬間に、ぴんときた。
ゆえにケイネスは、この瞬間に令呪を一画使っていたのだ。
衛宮切嗣に勝つために。勝つ以上のことをするために。
●
唐突な召喚に、ディルムッドは狼狽した。
契約のパスで繋がれた主が重傷を負ったという感覚はない。
しかしわざわざ令呪を一画使ってまで呼びつけてきたのだから、一刻を争う状況であるに違いない。
そう思い定め――しかし召喚後の光景を見たときには不可解さに眉をひそめた。
そこにケイネスの姿はなく、夜闇に沈む住宅街だけがあった。街路灯の光照らされて、道路や塀が断続的に浮かび上がっている。
〈我が主よ、下知に従い罷り越しましたが、いったいここは――〉
〈お前を臣下として信頼する最後のテストだ〉
即座に返ってきた念話による応えに、息を呑む。
その思念は硬く尖り、今この瞬間に主が極限の緊張状態にあることが伝わってきた。
生きるか死ぬかの瀬戸際にあるということが、はっきりわかった。
〈私は未遠川のほとりにいる。そこを監視できる場所に「監視者」の手勢が潜んでいるはずだ。探し出せ。そして見つけた後の処遇については、お前の判断に任せる。騎士道とやらは脇に置き、私の利益に最も叶う行いをしろ〉
〈――了解しました、我が主よ〉
ディルムッドは即座に跳躍し、住宅の屋根の上に降り立った。二槍を用いた高跳びで、城壁すら跳び越したこともある。この程度は造作もない。
――いた。
川のそばの道路にタクシーが止まっている。低い唸りを上げており、中に二つの人影があった。他に人のいそうな気配などない。あそこに主はいる。
タクシーを監視できる場所……ざっと見回した限りでは誰もいない。アーチャークラスの英霊ならいざ知らず、自分はそこまで超越的な視力は持っていない。もしも住宅の中に侵入して潜伏しているとしたらかなり厄介だ。
いや――
仮に不法侵入しているのなら、そこまでどうやって来たのか? まさか歩いて来たとでも? この時代の乗り物――あの奇妙な自動車というやつを使ったのではないか?
目にもあやな壮麗さを誇る宮殿や屋敷を住まいにしていた自分からすると、この国の住宅事情はほとんど冗談としか思えないほど狭い。
その敷地に、想定外の自動車を停めておける余地などないのだ。
ならば――
道路に目を走らせる。
「見つけた」
路肩に一台。タクシーとは異なり、後部が凹んでいない形状の自動車がある。夜中に来客などあるはずもなく、まずあれと見て間違いなかろう。
即座に霊体化し、不審車のそばの住宅に侵入。
寝静まっている家人らに黙礼で謝意を示しながら、未遠川に面した窓を探す。
あった。そして……いた。
窓から差し込む月明かりに照らされて、その女は切れ長の眼差しを階下のタクシーに向けていた。
色白の端正な美人だが、唇に紅も引いてはおらず、およそ自らを飾るという思考が欠如した佇まいだった。ただそうしたほうが目立たず済むというだけの理由で身を整えている。徹底的に目的への合理だけがある。
切っ先にも似た温度を感じさせない眼差しは、どのような色事師も声をかけるのを諦めさせるだけの冷淡さを湛えていた。
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