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塹壕の中に無神論者はいない
サラエボで放たれた弾丸は、地獄に至る亀裂を大地に刻んだ。
結局のところ、帰るに帰れないだけなのだ。
俺たちはもちろん、戦線を挟んで向こう側にいる連中だって、うんざりしていることに変わりはない。
ひっきりなしの砲声と、腹に響く振動。塹壕足に罹って片足が壊死した少年が、担架で運ばれてゆく。隣の奴が笑い始めた。立ち上がり、土嚢から這い出た瞬間、機関銃で引き裂かれて四散する。勇気出したな。おめでとう。
唇が渇き切っていた。さっさと敵襲か、突撃命令が来ないものか。殺し合いにはもう何も感じない。だが、土塁で空が狭められ、異臭に淀んだ空気と呻き声と死体と蠅と虱と蛆と鼠に満ちたこの中で、これ以上何もせずいることには耐えられない。
だから、いよいよお利口な俺の脳みそが、妙な幻覚を見せ始めたのかと思った。
車椅子が、きいきい音を立てながら、塹壕を進んでいる。
フロックコートのジジイが腰掛けていた。皺と染みだらけの手で車輪を回している。コートの下に汚れひとつないスーツとタイが見え、ぴかぴかに磨かれた革靴を履いていた。
それだけでも大概おかしな光景だが、白髪の老人は両目が白く濁っており、とても見えているとは思えなかった。なのに、そのへんに転がった死体や、土嚢が崩れた個所を迂回している。
神経が参っているらしい。俺はやけくそになって誰何した。老爺の肩を掴む。
「離せよ。孫の選んだ一張羅が汚れんだろうが」
かっとなって拳を振り上げた途端、それは起こった。
どこからか跳ね上がった小銃の銃身に、顎を殴り飛ばされた。だが老人の両手は一切動いていない。呻きながら身を起こすと、そのあたりに転がっていたライフル数十丁が、まるで小魚の群れみたいに宙を浮き、ジジイの周りを回遊し始めた。
鉄と木の塊どもは、高速でフォワードスピンやバックスピンを繰り返し、やがてダンスのフィニッシュを決めるように、無数の銃口を一斉に向けて来た。
「若ぇの。どうする」
【続く】
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