見出し画像

歓喜の闇

  目次

 悪寒のようにまとわりつくその思考を追い出し、総十郎は叫んだ。

「フィンくん! フィンくん聞いてくれ――」

 そこまで言いかけて、何を言うべきなのか、言葉がまったく浮かんでこない事実に打ちのめされる。
 何を言えばいい。どうすれば彼を救える。
 機知に長け、数多くの難事件や強敵を快刀乱麻に断ち切ってきた〈神韻探偵〉が、今、手をこまねいて見ていることしかできなかった。
 呆然と、顔を上げる。体から力が抜けそうだった。足元から徐々に冷たく昏い何かが浸蝕してきているかのようであった。
 そして――気づく。
 眼下一面に広がる底なしの暗渠。総十郎は本能的な悪寒を覚えた。外縁部の浅瀬から、中央の澱めいた色彩の変化が、まるであまりにも巨大な眼球のようだった。昏い闇を湛えた、理解不能な感情に満ちた瞳が、じっとこっちを見ていた。
 ここは、良くない。とてもとても良くない場所だ。わけもなく、そう思った。
 王城の真下にそのような場所が存在していることの意味に、総十郎はこの時点では気づかなかった。
 ともかく王城に戻ろうと、フィンを抱え直した瞬間――

「……なに……?」

 空気が変わった。風が変わった。匂いが変わった。精霊力の流れが変わった。
 あるいは――この世界に来た瞬間のような、スイッチが切り替わるがごとき、形而上的変化だった。
 それは、苦しみに満ちた悲鳴だった。
 森の意志が上げる、断末魔であった。

 ●

 そして、〈道化師〉とギデオンは玉座の間に至る。架空質のカーテンが幾重にも折り重なり、まるで巨大な大輪の花が咲いているかのような広間の中央に、それはあった。
 幽骨の、玉座。
 オブスキュア王国という名の、精霊力ネットワークの中枢。集積された神経回路。最高祭祀長たる歴代女王が、森の意志と交感するために用意された端末。
 その真上に、幽鬼王レイスロードは実体化した。紅い宝玉の埋め込まれた、黒き大剣を下に向け、蹴り落す。
 ねじくれた切っ先が突き刺さり、破片が散った。その柄頭に優雅に着地したギデオンは、断固たる意志とともにその言葉を発した。

「――犯せ・・

 瞬間、脈動する赤黒い光が玉座に流し込まれ、周囲の床や壁へと広がっていった。

「仰げよ屍山。紅蓮の闇――」

 喝采を受ける役者のごとく両腕を拡げたギデオンの詠唱が、陰鬱に広がってゆく。

「花は摘まれるためにある。命は終わるためにある。その瞬間にだけ意味がある」

 四方よもに満ちるは殺戮の意。

「憎むな、殺せ。憎悪は刃を鈍らせる。奪うな、殺せ。欲望は不純物なり」

 声が孕むは粛然たる狂奔。

まなこを開き、真理を識れ。生きるとは、殺すこと。生きるとは、静寂へ至る道。その果てにある空漠の荒野を!」

 詠われるのは逆境に奮い立つ魂。

「刮目せよ、それでもなお殺せぬ他者の実在こそが救いである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と言う真実を――!」

 赤黒い光がいっそう強く脈打ち、元の青白い幽妖な色彩を駆逐してゆく。

歪律領域ヌミノース――煉獄滅理」

 ●

 瞬間、法が書き換わった・・・・・・・・
 ヴォルダガッダ・ヴァズダガメスが魂に宿した悟りが、世界法則として幽骨を、架空質を、精霊力を浸食していった。
 その変化は一瞬で王城を覆い尽くし、静謐な美を湛えていた幽骨建築を歪めた。刺々しくねじくれた、赤黒い魔城へと変質させてゆく。
 精霊力の循環を通じて汚染はとめどもなく広がってゆき、樹々を、獣を、その生態系のすべてを禍々しく冒涜し、歪ませていった。
 無意味な殺し合いを前提とする、修羅の世界へと。
 すべての獣は爪牙が肥大化し、棘が全身より生え、しかしその目には奇妙に静謐な光があった。

「な、何だ……!?」
「森が……」

 動揺するエルフたちの前で、おぞましい変異が続く。
 植物たちはその枝葉が刃のごとく鋭く研ぎ澄まされ、そばを通る者すべてを切り裂き、流れた血を啜る存在となった。
 あらゆる命がその本質を歪められ、攻撃性のみを極端に誇張された魔物と化した。

「ひっ……ひぃぃっ」
「いったい何が……どうして!」

 これまでエルフたちを優しく包み込んできた翠色の揺籃は、今やどこまでもつづく赤黒い煉獄と化していた。
 通常、それはあり得ないことであった。所詮は一個人の狂気の産物に過ぎない歪律領域ヌミノースが、ここまで大きく広がるなど不可能だ。
 しかし、無数の木々の集合意識が紡ぎ出した特殊な歪律領域ヌミノースの存在が、絶滅の法の超広範囲展開を可能にした。すでに構築されている精霊力ネットワークを乗っ取ることにより、悪鬼の王の悟りは既存の法を塗り潰したのだ。

「クレイス……ラズリ! どうしたんだ! わたしが……わからないのか!?」

 ねじくれ歪んだ角を振り立てながらにじりよってくる樹精鹿を、リーネは愕然と見ていた。
 明らかに二頭はこちらを殺そうとしている。そのことに、打ちのめされた。子供のころからの友達だったのに。
 虐殺の理は凄まじい速度で膨張してゆく。精霊力の流れに乗って。

「嫌……こんなの嫌だよぅ!」
「一か所に固まれ! はぐれるなよ!」

 魔物と化した獣に追い回される平民らを、騎士たちは必死に護った。だが、自らの甲冑と武器までもがきちきちと音を立てて軋み、歪み、赤黒く染まっていることに愕然とした。
 襲いくる魔猪、魔鹿、魔犬、魔鳥を斬り捨てる。しかし、騎士たちが戦うまでもなく、森の獣らはお互いがお互いに牙を突き立て合っていた。
 ケリオス・ロンサールは目を見開く。視界一面で繰り広げられる際限なき流血。
 まさか、森すべてが、こうなのか?
 その考えに、恐怖する。
 喰らい合い、殺し合い、死滅するまでつづく狂乱の宴。絶滅の法。
 だとしたら――森のすべての命が死に絶えるまで、あとどれほどかかる?
 何日? 何時間? ――何秒?

「終わりだ……」

 呆然と、つぶやく。
 怯えきって泣く女たち。絶望に萎えかかる手足を必死に奮う騎士たち。咆哮もあげず、粛々と殺し合い続ける森の禽獣ら。
 神統器レガリアを水平に構え、樹精鹿の突進を受け止めるリーネ。涙を流し、いやいやをしている。

「世界の終りだ……」

 どうにもならぬ。森は死ぬ。そうなればエルフは生きてはいけぬ。
 何が起こったのか。なにひとつ理解できぬまま、すべてのエルフは恐怖し、恐慌し、絶望した。






 その、瞬間。

「ところがぎっちょん、そうは問屋がオロナミンC!!!!」

 森の全域に、なんかよう意味の分からん声が轟き渡った。

【続く】

いいなと思ったら応援しよう!

バール
小説が面白ければフォロー頂けるとウレシイです。