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『シュジュギア -帝都神韻機鋼譚-』 #1
鵺火総十郎は主人公である。
人は誰しも己が人生の主役である、という意味においては、自覚している。
美しい、青年であった。
しなやかな四肢を深い紺碧の学生服で包み、冬期制式マントを羽織ってゐる。
切れ長の双眸は、淡く優し気に細められており、愁いを帯びた色香を漂わせる。
すっと通った鼻梁の下で、薄い唇がゆるやかな弧を描いてゐた。
微笑んでいる、というわけではない。しかし、後になって彼の顔を思い出そうとすると、どういうわけか穏やかに微笑んでいるさまが脳裏によみがえる。
ふつう、美しい人間というものは、冷たい印象を意図せず振りまいてしまうものだが――彼に限っては例外であった。人の警戒心をそれとなく緩めてしまう、どこか柔らかい印象を宿した青年であった。
こゝが帝都の往来であれば、道行く婦女子らが彼の美貌を前に思わず胸を高鳴らせ、しかるのちにほっと息をついて微笑みとゝもに会釈をして去ってゆくさまがひっきりなしに繰り広げられたことであろう。
しかしこゝは〈黄昏熾示録盟約団〉の大儀式によって現世に顕現した〈無限城塞〉の天守であり、当然ならが通行人など一人たりとて存在しようはずもなかった。
――そこは、ひとつの宇宙であった。
尋常な人間であれば畏れを抱くほどの広大な空間。床や壁は磨き抜かれた黒曜石で形作られており、天井は遥かな闇に包まれて見ることができない。
墨汁の湖面に立つかのごとく、青年は佇んでゐる。床には上下さかしまの像が映ってゐた。
青年の目の先には、一か所だけぽつねんと、何かゞそびえ立ってゐる。
異教の祭壇のようにも、巨大な風琴鍵盤のようにも見える、奇妙な構造物。
それは、醜悪にして荘厳なる玉座であった。
全方位に棘とも甲殻ともつかぬものが伸びてゐる。異形の昆虫が咢を開いたかのような生物的な意匠。
その中央に、一つの怪異が座す。
白銀の深淵を湛えた右眼は、目の前の青年にいかなる興味も持たぬかのように、軍刀のごとき透徹した眼差しを浴びせるに任せてゐた。
黄金の渾沌が渦巻く左眼は、余人には計り知れぬ感情を含んだ笑みの形に歪められ、極限の熱量をもって青年を傲然と見下ろしてゐた。
鮮血色の髪が艶やかにうねり、足元にまで垂れさがる。
異相の、男。
片肘で杖をつき、だらしなく、深々と、玉座に背を預けてゐる。
青年が、受け入れ寄り添う美であるとするならば、座する男は服従と畏怖を強いる美であった。
鬼気とも、凶気ともつかぬものが絶大な圧力を持って青年に吹き付け、跪けと言外に強要する。
されど――青年はそれを夏の涼風のごとく受け流す。悠然と、不遜ですらあるさまで、玉座の御前に足を進めた。
金銀妖眼が刃物のように細められ、完璧な造形の口元が吊り上がった。
男は口を開く。
「――ようこそ。我が〈無限城塞〉へ。歓迎しよう。」
低く、深く、澄んだ声であった。
その声には愛があった。己が掌でもがく愛玩動物に向けるたぐいの愛が。
青年は応えた。
「痛み入る。招かれざる身での唐突な訪問については謝罪させてもらおう。のっぴきならぬ火急の用というものがあるゆえに。」
やゝ苦笑交じりの返答だった。
「火急の用とな。ふむ。伺おうか。」
鷹揚に、怪異の男は促す。
青年は、おもむろに目を閉ざし、一息吸い――そして見開いた瞬間、その黒瞳からは柔らかい印象が消えてゐた。
「――御首級、頂戴つかまつる。」
夜の風鳴りのごとく、その声は周囲に拡がり、溶けていった。
くつ/\と、怪異の嗤いが漏れる。
「なるほどなるほど。下で暴れておる者らは貴公をこゝまでたどり着かせるための囮か。」
「さよう。小生ひとりで御身ら〈黄昏熾示録盟約団〉全員を相手するのはさすがに荷が勝ちすぎるゆえに。」
〈無限城塞〉の下層――より現世に近い領域では、現在〈黄昏熾示録盟約団〉の最高評議会を構成する魔人らと、宮内省挺身抜刀隊の精兵五十名が、極限の死闘を繰り広げてゐた。その先頭では、かの〈魔奏怪盗〉までもが青年の作戦に協力し、絶技を振るってゐる。
彼らに対して借りを作るのは、青年としては極力避けたかったのであるが、もはや是非もなし。
帝都上空に物質化した〈無限城塞〉の脅威は、誇張抜きで神州全域を消滅させかねぬほどのものだ。
一刻の猶予もない。
「なぜこのような恐ろしい破壊を成すのか――などと無意味な問答で時間を空費する気はない。即座にそっ首叩き落させてもらおう。」
青年は滑らかに伸びた白い指先で、腰に帯びる得物の鯉口を切った。
絶大な威と美を秘めた哄笑が轟き渡る。怪異の王は愉快でたまらぬ様子である。
「時間がないのは理解するが、いささか拙速に過ぎたな。ただひとりで私を討伐しようなどと。[一体なにを焦っておる]?」
見透かすようなその問いに、青年は応えた。
「――小生、ロリコンなれば。」
「……なに?」
「帝都に住まう愛おしく麗しき君らの笑顔を護るため、死力を尽くす所存である。」
「言葉の意味はよくわからぬが、下らんな。超越者がそのような些事に心乱されるようでは、可能性の空費という他ないぞ。」
怪異の王は、気だるげに指をクン、と振り上げた。
瞬間、玉座を囲むように、六つの巨剣が浮上する。
まるで、そこが水面だったとでも言うように、黒曜石の床から生え、上昇し、空中に静止したのだ。
巨人の王が振るうために鍛え上げられたがごときその黒き刀身には、オベリスクじみて無数の秘文字と死文字が刻まれ、ぼんやりと発光してゐる。
これこそが怪異の王の意思において駆動する星気兵装。ただひとつですら万軍を葬り去る、破壊と殺戮の申し子らである。
青年は、優し気だった両眼を鋭絶に細め、刀を一気に引き抜く。
同時に、鞘の機構と接触して、刀身が細かく震え始めた。あたかも音叉のごとく、殷々とした音色が大気を満たす。
それは、万象を切断するための音色である。万物の分子振動と共振し、何の抵抗もなく斬り込むための。
――されど、我が撃刀は斬魔の法なれば。
優美な指先が、刀身を爪弾くと、音色が変化した。
万魔を浄滅せる音階へと。
神韻へと。
怪異の口の端が愉悦に吊り上がり、禍々しき色彩を帯びた星気が空間を歪ませながら立ち昇った。
「〈黄昏熾示録盟約団〉統括首領、位階《8=3》、リュングヴィ・ガリギュラヰザア。――若き客人よ、最高の歓待をいたそう。」
「〈神韻探偵〉鵺火総十郎。一手奏楽たてまつる。」
腰を落とし、両眼を隠すように刀を構える。
間もなく激発する究極の魔戦の予感に、大気が鳴動した。
●
――それから、三ヶ月が経過した。
皇紀二千五百八十年、五月三日。
――〈黄昏熾示録盟約団〉との死闘の記憶は、いまだ総十郎の脳裏に焼き付いてゐる。
帝都の霊的要衝が次々と破壊され、大和臣民らの足元を巡る大星脈が制御を失い暴走、あわや神州は白き熱の奔流に呑まれ、この世から消滅の憂き目に遭わんとした未曽有の大災厄。
この事態を収めるにあたって、さしもの鵺火総十郎も単独ではことを成せなかったであろう。かの〈魔奏怪盗〉やゲハイムニスナハト教授などの宿敵たちと手を組まざるを得なかった点は、総十郎の胸中にもいさゝか複雑なものを残していった。
とはいえ破壊された帝都は急速に復興をつゞけ、人々の顔にも徐々に安堵の笑顔が灯り始めてゐた。
萃星気の混じった風が、窓からゆる/\と吹き込んできてゐる。
かすかに甘いような、さわやかな風味を持つ薫風を肺いっぱいに吸い込み、総十郎は眉目を柔らかく細めた。
彼は現在、革張りのソファに腰かけてゐた。
そして胸元に抱いた嬰児をあやしてゐる。
「おゝ、麗しの君よ。なぜ貴女の瞳はそんなにも美しいのか。その小さな口はそんなにも愛らしいのか。艶やかな頬はこんなにも触れたくなるのか。もはや神秘的ですらある。」
あぶ、あぶ、と笑う赤子に、蕩けるような微笑みを向け、優しくゆすってゐる。
小さな五指が伸びてきて、総十郎の鋭角的な頬をぺた/\と触ってゆく。
「あっ、飛んだ。」
瞬間、甲高い声がした。
ひら/\と舞い飛んできた式紙を、総十郎は白く長い指でつまみ取る。
見ると、擬人式神を憑かせるための呪が、子供特有の拙い筆跡ながらも、生真面目に書き込まれてゐた。
「ふむ、巧く書けておる。」
総十郎はしきりにうなずく。
「もう、窓は閉めてくれよ総ちゃん。散らかしたらまた祀ねえちゃんに怒られるぞ。」
坊主頭の少年が、筆を片手に頬を膨らませてゐる。
その隣では、五歳くらいの幼子が、鼻歌を囀りながら総十郎と兄の似顔絵を描いてゐた。
「あゝ、すまない。では……そうだな、この式神を起動して、閉めさせてみるといゝ。この精度なら動くはずだ。」
「エッ、ほんと? 貸して貸して!」
目を輝かせて式紙を受け取ると、しゃちほこばって咳払いひとつ。
そして彼は口を開いた。
「きひづかみのかむみたま、えゝと、いづのみたまをさきわえたまえ!」
たど/\しい詠唱。しかし効力は発揮された。
式紙が一瞬、朧な光を宿したかと思えた瞬間、ふわりと浮き上がる。
そしてひとりでに紙が折られてゆき、ほどなくずんぐりした人型の折り紙となって卓子の上に降り立った。
「わあ、あんちゃんすげえ!」
横で落書きをしていた幼子が歓声を上げる。
本来、式神使役の術式は、五行祭壇を用意するなど色々と面倒な手続きが必要になってくるのだが、産業革命によって世界に萃星気が満ちるようになって以降、人と神秘の距離はぐっと近くなってゐた。
「ようし、あの窓を閉めてこい!」
少年が鼻息も荒く命ずると、式神はぺこりと一礼。卓子を軽やかに駆ける。
そのまま跳躍。ひとっ跳びに窓枠に取り付くと、細長い三角形でしかない両腕を使って引きにかかる。
が、あまりに非力だった。引き窓はわずかも動かない。
「あっ。」
吹き込んできた風に飛ばされて、こちらに舞い戻ってきてしまった。
総十郎は優美な指を伸ばして式神に触れると、またひとりでに折られていた紙が開いてゆき、平面に戻った。
「ちぇっ、失敗だ。」
「否ゝ、初めてでこれだけ動かせるのは上等である。」
「そ、そうかな。」
「あとはたゆまず練習を重ねれば、もっと強力な式神も使えるようになるであろう。」
「えへゝ……」
といったところで鵺火探偵事務所の玄関が、派手な音を立てゝ開かれる。
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