吐血潮流 #16
そんな錯覚をしてしまうほどに邪な気配を纏う人影が、彼女のすぐそばを駆け抜けて行ったのだ。
「あ、やんっ!」
彼女は悲鳴を上げて自分の体を抱きしめた。
「――この身は瘴気。あらゆる防備を嘲笑う疫風……」
セラキトハートの背後で、優雅なテノールが奏でられる。それは不純な興奮によって上擦っていた。なんかもうグヘグヘとか笑い出しそうなくらいに。
「ふ……今の一瞬で、君の体のあらゆる突起物けいらくひこうを触れるか触れないかという絶妙かついやらしい力加減で突いた……君はもう、お嫁にいけない」
「な、何者でごわすかぁーッ!」
なんか涙目なセラキトハートが振り返る。
そこにいたのは制服を着た長身の少年。スマートな佇まい。美麗な微笑みを浮かべる顔。しかしその目元は緑がかった漆黒の髪によって隠されていた。
鉤状に曲げた指を拡げ、さらに顔を隠す。しかし邪に歪む口の端は隠しきれず、ぬらりとした舌が踊って言葉を紡ぎ出す。
「――闇灯謦司郎、変態さ」
「う、ううぅぅぅ……!」
セラキトハートは再び呻きながら後ずさる。
行いはどうあれ、驚愕すべき身体能力であった。やや離れて見ていた攻牙にすら、謦司郎がどこから現れて具体的にナニをしたのか見えなかったのだ。理不尽すぎる。
「……っていうかセクハラやってる暇があったらバス停とか奪えよ!」
「残念、僕は女の子の暗い欲望より重いものは持てないんだ」
「えっとごめんちょっと何言ってるのかわかんねえ」
「おっ、主賓が来たみたいだ」
次の瞬間、謦司郎はその姿を消した。現れた時と同じく、動作はほとんど見えない。
そして――
「攻牙よ、お前の決意は聞かせてもらった。俺はお前のことを侮っていたようだ」
グランドに、朗々とした声が響き渡る。
「うぅっ!? その声は……!」
セラキトハートのバスが巻き上げた砂煙――その向こうに、人影が浮かび上がる。
「へっ! 遅ぇんだよこの野郎……」
攻牙が口の端を吊り上げた。会心の笑みだった。
「そんな! どーしてここにいるんでごわすか!?」
今までで一番動揺しているセラキトハート。
人影は、腕を天に向けて伸ばし、高らかにその名を叫んだ。
「顎門を開け――『姫川病院前』!」
突風を伴い、蒼い稲妻が荒れ狂った。砂塵は一瞬にして払拭され、一人の少年の姿が現れる。
普段は眠そうなその目が、今は研ぎ澄まされた光を湛えている。
――それはひと振りの魂を鍛え上げる決意の焔。
「鋼原射美よ。いろいろと有為曲折はあったが、今こそお前との宿命に決着をつけるとしよう」
ヴン、と『姫川病院前』を打ち振るい、強壮な風を引き起こす。
――あらゆる情念を越えた地平から撃ち放たれる、純然たる戦意。
「あわわわわ、ヤバいでごわす~! こんなはずじゃあ……」
四指を噛むセラキトハートをよそに、彼はどっしりと腰を落としてバス停を構えた。
――動かされることを拒否する佇まい。不撓にして不屈の不動。
かくあれかしと。
彼は自らに課する。
その名は。
「我流、諏訪原篤。推して参る――!」
地面を蹴り砕き、肉薄。
逆持ちの握りから、全身をひねって横薙ぎの一撃を繰り出す。
「せいッ!」
「きゃんっ!」
激突。伴って閃光と爆裂。
衝撃が拡散し、突風となって周囲を荒れ狂う。
セラキトハートは『夢塵原公園』で防御した姿勢のまま、十数メートルを吹き飛んだ。
戦いが、はじまった。
●
「やー、手ひどくやられたねえ」
二人のバス停使いの超絶的な戦いを眺める攻牙を、背後から優雅なテノールが労わった。
「謦司郎! てんめえ……やけに遅いじゃねえかよ!」
攻牙はガバッと振り返り、肩を怒らせる。
「いやいや、そう言わないでくれよ。僕は長距離走は苦手なんだ。もうヘトヘトさ」
セリフのわりに息ひとつ乱していないのがなんかムカつく。
……すべては攻牙の考えである。
図書室でセラキトハートにバス停の力を見せ付けられた瞬間から、攻牙は思った。
――こりゃやべえ。
衝撃を受けた。こいつ強すぎる。
《《今の》》自分ではこいつを止められず、霧沙希は拉致されてしまう。こいつはいわゆる「イベント戦闘」だ。物語の序盤で敵の強大さを表現するために仕込まれる、絶対勝てない戦闘なのだ。そうに違いない。いずれ自分自身も数々の強化イベントを経てハイパーな戦闘能力を獲得してやるつもりではあるが、今は勝てない。
冷静に(?)そう認めた攻牙は、裏山にいるであろう篤にメールして呼び戻すことを考える。
ポケットから携帯に手をかけた瞬間、はたと思いだす。
そういえば篤は携帯を持っていなかった。
――あんのアナログ野郎が……!
そこで次善の手として、謦司郎をパシらせることにした。
普段から篤の視界を避けつつ接近するという恐るべき機動力の持ち主であれば、裏山までそう時間はかからないだろうという目論見である。
「あ、そういえば僕も最近スマホをトイレに落としてオシャカにしちゃったから、そこんとこよろしく。ちなみにその日はちょっとお腹の調子が悪くてね……優しいブラウンに染まった僕の愛機は、まるでミルクチョコレートのごとき素朴な美を宿していたよ……」
おいィィーーッ!
大声で突っ込みたかったが、セラキトハートの手前、それは自粛する。
ともかくそういうわけだから、篤とも謦司郎とも連絡できなくなる以上、彼らが戻ってくるまでは是が非でも敵を学校に足止めする必要があったのだ。
――死ぬかと思ったが、どーにかなったぜ。
へへん、と攻牙は上機嫌。
――篤、今回はヒーローは譲ってやる。
そして、叫ぶ。
「だから、勝て! 勝って霧沙希を救え!」
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