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夜天を引き裂く #13

  目次

 絶無はさすがに瞠目した。
『え、ウソ……え!? ホントですぅ!? うわ、ホントだ!』
 クリオネがうろたえたような声を上げた。
『今なら楽に勝てる。休戦といこう。利害は一致しているはずだ』
 重騎士が重苦しい口調で提案する。
『ふふん、了解ですぅ。神骸装でみうるごすを潰したなら大手柄ですぅ~!』
 半透明の頭部がぱくりと割れ、中から白い女の腕が六本ほど伸び広がった。
 ほっそりとしなやかなシルエット。まるで異形の花が大輪を咲かせているような威圧感がある。
 だが――
 絶無の意識は、そこにありながらその場にはなかった。
 汗が、にじむ。
 ――なんという。
 目を見開き、次々と流れ込んでくる暴力的なまでの情報群に驚愕し圧倒され打ちのめされ声も出ず、
 そして、さまざまな事実を感得する。
『久我、最後通牒だ。死にたくなかったら離れろ』
 静夜の声が、鋭いエコーを伴って届く。
 絶無は、応えない。ただ、つばを飲み込んで、ひたすらに黒澱さんを抱きしめた。
 ぐんにゃりと快い抱き心地に、陶然と目を細める。
「……ならば、あなたは」
 彼女の耳元に、押さえきれぬ熱を孕んだ声で囁きかける。
「いずれ神となる御方なのですか?」
《可能性/不確定/あくまで候補/そのひとつ》
 ――なるほど。
 不思議な感動を、絶無は味わっていた。
「みつけた……」
 声が震える。
「闇夜の荒野に、星の導き。僕は探し求め、黒澱さんが現れた」
 黒髪に覆われた首筋に、顔を寄せる。かすかなシャンプーの匂いと、甘い体香が鼻をくすぐった。
『久我ッ! やめろ……!』
『ふたりまとめてぐっちゃんぐっちゃんにしてやるですぅ!』
 前と後ろから、霊骸装アルコンテスが迫ってくる。
 ――さすがに。
 奥歯を噛みしめ、頬を歪める。
 ――この展開は予想していなかったな。
 制服越しにわずかに浮かび上がる黒澱さんの背骨の感触を楽しみながら、絶無は小さく語りかける。
「あなたの大望に、僕は殉じたい。どうか、そのことをお許しください」
「あ……」
 呼吸についでに出るようなか細い声が、耳元で漏れ出た。
「やさしく、してください……」
 初めて聴いた彼女の言葉は、生まれたての白い小蛇のように震えていた。
 衝動的に首をよじり、少女の髪の奥にある青白いうなじを掘り当てた。
 同時に、視界に影が差す。
 ぎり、と金属が軋みを上げ、巨大な破城鎚のごとき拳が握りしめられた。
 うねり、のたうち、風を引き裂きながら、六つの白腕が掴みかかってくる。
 瞬間――
「――骸装」
 あたかも、不死のくちづけにも似て。
 絶無は、彼女の首筋に、優しく噛み付いた。
 ドクン、――と。
 世界が、心音を発した。

 ――『新しい天使』と題されたクレーの絵がある。

 少女の背中の肉がほどけ、腕の中で花開くように展開してゆく。
 混濁した黒と、夜明け前の空を思わせる蒼が、少年の目の前で形を成す。
 無数の触手。溜息をもたらすほど優美な孤を描き、彼の体を包み込む。

 ――それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見つめている何かから、今まさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。

 弾力を持った感触が、少年の全身を締め付ける。
 みりみりと音を立てて、自らの肉が裂け、骨格が歪められてゆく、そのリアルな感覚。
 しかし痛みなどなく、甘美な震えのみが怖気のように走っている。

 ――歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。…私たちの目には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつ、破局カタストロフだけを見るのだ。

 黝い神の肉が、絶無の体内にくまなく根を張り巡らせ、やがて溶け込むように同化し始める。形状を、構造を、組成を、そのすべてを一旦溶解させ、人ならざる存在へと止揚しにかかる。
 酵素反応の連続体モータルから、認識作用の循環体イモータルへ。

 ――その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。

 大気が、鳴る。殷々と、高らかに。それは産声であり、福音であり、終末の喇叭ともなりうるもの。
 激しく渦巻く聖性の中心で、黒い触手に編まれた人間大の繭が悶えていた。
 ぶちぶちと音を立てながら、内部で根源へと至る変異が高速で進んでゆく。

 ――ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へと引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。

 やがて、黒く艶やかな肉の蔓は、梱包を解くようにほどけ、周囲を薙ぎ払った。
 無数の黒い触手が、世界を支える大樹の威容を持って、四方に広がってゆく。
 翼を広げるように。夜が訪れるように。

 ――私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。

 ひとつの影が、大地に降り臨んだ。
 肉感的な、黒い軟質の甲冑。

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